たるは、猶ほ大隈伯が其の前半期に於て、自己の経綸を行はむが為に、必らずしも大久保党たりと目せらるゝを避けざりしに同じ、以て両伯の出処進退に両様の意匠あるを見るべし。
世或は大隈伯の後半期を以て失敗の歴史と為す。若し政権に近接せざるが故に失敗なりといはば、明治十五年以後の大隈伯は実に失敗の政治家なり。伯の後半期二十五年間の大部分は、全く政府と絶縁せられたる歳月なればなり。然れども伯が政治家としての実力及び偉大は、寧ろ此の後半期に於て十分発揮せられたりき。朝側の二大勢力たる山県伊藤両公も、時としては此の二大勢力の聯合したる政府も、其の系統を承けたる桂内閣も、乃至西園寺内閣も、最も大隈伯の存在を重視し、大隈伯の活動を畏憚し、大隈伯の監視、批評、向背に対して喜憂を感じたるのみならず、伯の意見は往々日本国民の利害を代表するものとして列国の政府及び国民を聳動したる場合少なきに非ず。伯豈失敗の政治家ならむや。但し伯は政権に近接したる機会に於ても、亦久しからずして之を喪ふが故に此の点よりいへば、伯は疑ひもなき政治上の失敗者なるに似たり。伯は条約改正問題を以て黒田内閣を瓦解せしめたりき。松方侯と聯合内閣を造りて其の終りを善くする能はざりき。憲政党内閣の首相として其の統一を維持すること能はざりき。伯を閣員としたる内閣は、不幸にして必らず内部の分裂より破れたりき。之れを伯の失敗といはゞ失敗たるに相違なきも、其の失敗は未だ以て伯の政治家たる名声を毀傷するに足らざるなり。元来伯は常識の天才なれども、伯は其の常識を行ふに当つて、動もすれば物理学上の重力法を無視するの嫌ひあり。例へば伯は決して単純なる放言壮語家にあらずして、又実に謹慎自重の徳あり。而も伯は屡々此の両極の垂直を保つの用意を欠けることあるが為に、或る社会の人は伯を無責任の政治家なりと冷嘲せり。伯は必らずしも剛情我慢、他を圧例して自ら喜ぶものに非ず、又善く交譲し、善く調和し得るの雅量を有せり。而も伯は屡々此の雅量と剛情との水準を秤るを忘るゝことあるが為に、共同者の憤懣を買ふことあるを見たり。伯は反対党の悪口する如くに、常に便宜に従つて意見を製造する臨機主義者に非ずして、又一家の信条と一貫の理想とを有する政治家なり。而も伯は屡々臨機主義者なりと誤解せらるゝの傾向あるは何ぞや。是れ重力法の原則に頓著せざるが為なり。今一つ伯に於て発見する所は、伯が清濁併せ呑むの大度と、群情を駕御するの術との間に重力法を応用すること周到ならざるの迹あること是れなり。蓋し伯は自信強きが故に、如何なる人物をも包容して其の材料を尽さしめむとし、且つ如何なる不平の声も之れを鎮撫するに於て多くの苦心を要せずとするの風あり。概言せば伯の人格は、円満といふよりは寧ろ多面といふべく、完美といふよりは寧ろ偉大といふべく、而して其の本領は、目前の成敗を顧みずして、我が為さむとする所を為すの男性的活動に在り。
陸奥伯の人格は、大隈伯と自ら別種の模型を有せり。伯は神経質の才子にして、若し伯より野心と覇気とを除かば、或は詩人文学者の質に近かきやも知るべからず、伯は天才の詩人に見るが如き鋭敏特絶なる直覚力を有し、又泰西著名の文学者に見る如き深刻なる観察眼を有せり。然れども此の直覚力と観察眼とは、伯の野心及び覇気と抱合して、聡明自ら恃むの政治家を鋳造したりき。伯は人の隠微を読み、敵の弱点を指し、世の情偽を察し、事の利害を断し、理の是非、機の先後を判ずるに於て、電光の暗室を照らすが如し。唯だ伯は聡明自ら恃むが故に毫も衆俗を送迎して人望を収めむとすることなく、衆俗も亦伯の豺目狼視に触るゝを好まずして自ら伯と親まざるに至る。是を以て伯には独り個人的能力の伯を重からしむるものありて、国民に対しては殆ど何等の感化をも及ぼしたるものなかりき。伯は曾て伊藤内閣と自由党との連鎖たることありしも、若し伯をして自由党統率の任に当らしめば、到底星亨の為し得たりしものを為し得ざりしならむ。伯或は政党の謀主たるを得たらむも、理想的党首の器は之れを伯に望むべからず。伯は智力の輪転機なり。満身総べて是れ智力にして、其の道徳も、其の勇気も、其の感情も皆智力を以て指導せらる。故に伯に在ては智力と一致せざる道徳は愚なり、智力より生ぜざる勇気は暴なり、智力に伴はざる感情は痴なり。真の道徳、真の勇気、真の感情は智力を本位としたるものにして、智力は真なり、美なり、善なり、絶対的尊貴なり。故に伯は智者を服すれども、勇者を服する能はず、血性家を服する能はず。是れ伯の勢力圏の甚だ狭かりし所以なり。
然れども伯の智力本位は、其の人格の色彩輪廓を瞭然たらしむるを以て伯と相見るものは伯に於て一の偽善を認めず、心々直に相印するの感を生じて、伯に信服するものは恰も宗門的関係を胥為するに至るべし。故に
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