井上伯は老来野心漸く消磨したりといへば、自ら進で閣員たらんとするの目的ありしとは信ずる能はずと雖も、伯は政友会の創立には熱心なる世話人たり、新内閣の出産には老練なる産婆役たりしを以て、更に新内閣の保姆として重要なる一椅子を占むる権利を有したりしは無論なり。而して伊藤侯も亦之れを以て、伯に望みたりしは、既に公然の秘密なり。単に新陳代謝の必要より論ずれば、老骨井上伯の如きは、むしろ新内閣の伍伴たらざるを喜ぶべしと為す。されど伯にして若し内閣の一員たりしとせむか、其の一種の潜勢力は多少内閣に威重を加へたりしやも知る可からず。伊東男に至ては、其の人品或は議す可きものありと雖も、其行政の才固より当世に得易からず。伊藤侯が彼れを新内閣に羅致せむとして慫慂頗る勉めたるは又当然といはんのみ。况んや彼れは伊藤侯と切て切れざる関係あるに於てをや。
 然るに伊東男は、最初より入閣を肯んぜず。井上伯は内閣組織の間際に於て突然失蹤したるは何ぞや。世間伝ふる所に依れば、伊東男は近頃漸く伊藤侯に親まずして反つて山県侯に接近しつつあり。是れ入閣の勧告を拒絶したる所以なりと。此の説恐らくは揣摩臆測にして真相を得たるものにはあらじ。余の聞ける所にては、伊藤侯は二三年以来頓に健康に異状を呈し、筋肉の機能次第に衰憊したると共に、神経系統の感応作用は反つて過敏と為り、随つて喜怒愛憎の変転甚だ迅速にして端睨す可からざるものありと。侯の近状果して斯くの如しとせば、其何等かの刺戟に由りて、一時若くは或場合に於て、伊東男と感情上の衝突ありしやも知る可からず。されど此れが為に侯と伊東男との関係一変したりとは想像し得可くもあらず。而も伊東男の新内閣に入るを避けたるは他なし。一言にしていへば、侯は政友会の創立に付ても、将た新内閣の組織に付ても、多くは伊東男に謀らず、たとひ之を謀るも多くは其の意見を容れずして、反つて伊東男の平生敵視せる他の人士に謀りたるが故に非ずや。蓋し彼れは新内閣を認めて予後不良の症状ありと為し、伊藤侯をして早晩之れを自覚せしめて、局外より侯を救ひ出だすの手段を取らむと欲するものゝ如し。唯だ此の推定は、彼と伊藤侯との関係に就て、常識上より観察したるに出づ。若し彼れに別種の隠謀奇策ありとせば、是れ固より彼れ以外の人の窺ひ知る可き所に非ず。
 井上伯の失蹤は、渡辺子の心機一転と相反襯して一幅の奇観を表出せり
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