リカルじゃ」
答えなかった私は這々のさまで、自分の室へひきあげた。およそ雑談はこういう種類の罪のないもので、正しい見当は誰れにも判らないくせに、節穴やヒステリカルでもおさまっていた。
とよ子がベッドで外の話声を聴いて、蛸さんて実に名の通りだなどと、おかしげに云った。
「私が窓から見ましたら、口を尖らせる時には額に三本横筋が寄りましたの、このテレスを通る時にはいつでも私を覗いていたりして、おかしなひと」
おどろいたことにはその翌朝廊下を通る蛸さんを見ると、額に大きな絆創膏を貼っていた。皺伸ばしを説明しているのをきいても、私はあまり驚けなかった。病院というところは、誰れが熱を出した、誰れが血痰したというような細事をまで声なき声のように疾風迅雷的に耳から耳に伝わるものであった。とよ子の声がいやしくも他人に係わっていた限り、反響を起したのもふしぎはなかった。
病院内の交際などで病人たちが慰め合ってる気風もとよ子に次第にわかりはじめ、時折りは長兄の見舞を待ちわびる気持も、周囲の空気のなかに紛[#底本は「粉」、35−17]らかされていた。
何かの歌謡曲を澄んだ丸味のある声で唱っていたりし
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