な人があつたら、それは残念ながら近代人とは言へまい。……
 ざつとさういつた考へが、仏像を覗《のぞ》きまはつてゐるうちに次第に頭をもたげて、僕はいつのまにか興奮してゐた。僕はその頃、建築材料のことで或る難問に逢着《ほうちゃく》してゐたので、いさゝか神経衰弱ぎみだつたのかも知れない。やがて西域出土物の室にはいつて、ムルックの石窟《せっくつ》寺のものだといふ壁画の断片を見たり、小さな像や壺《つぼ》の破片を眺めたりした。壁画は、色彩といひ描線といひ、法隆寺の金堂のあれにそつくりだつた。僕ははげしい郷愁を感じた。もつともその郷愁は、奈良へ向ふよりは一層つよく西方へ惹《ひ》かれるものだつた。僕はためらつてゐた北京赴任を、ほとんど決心した。
 ミイラ室を最後に、僕は博物館を出た。そこには高昌《こうしょう》国人だといふミイラが、さう、たしか六七体ほどならべてあつた。高昌といふ国を僕は知らなかつた。君もひよつとすると知らないかもしれない。案内記によると、西域といつてもずつと中国寄りの、天山南路にあつた国で、大たい五世紀ごろから七世紀ごろまで存続してゐたらしい。もと匈奴《きょうど》の根拠地だつたのが、次第に漢民族の侵蝕をかうむつて、遂《つい》にその殖民地になつたのだといふ。いはばトルキスタンとフンと漢と、この三つの勢力が早くから抗争して交流してゐた地方なのだ。したがつて一口に高昌人といつても、その正確な人種的決定は案外むづかしいかもしれない。現に当の匈奴にしてからが、蒙古《もうこ》系とする説とトルコ系とする説とがあつて、はつきりした結論は出てゐないといふではないか。いや、そんな詮議だてはどうでもいいことだつた。僕は目《ま》のあたりに古代人を見たのだ。その生きてゐる姿を見たのだ。もし生きてゐると言つて悪ければ、生きてゐる以上の、と言ひ直してもいい。何しろそのミイラたちは、千三百年ものあひだ、そのままの恰好《かっこう》でじつと眠りつづけてゐるのだからね。……
 身長は大きい方ではなかつた。褐色に黒ずんで固まつてゐるものだから、尚《なお》さら小さく見えた。顔は面長《おもなが》の方だつた。骨組はがつしりしてゐるらしいが、どれも一様に胸はくぼみ、腰骨がひどく出張《でば》つて見えた。そんな姿から、僕は彼らの遊牧生活を、まざまざと思ひ描くことができた。彼らを起きあがらせ、片手に長い杖《つえ》をつか
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