うちにふつと、さつき見た空屋の一つのエレヴェーションが眼にうかんだ。ちよつと使つて見たい線がそこにあつたのだ。僕はスケッチ・ブックを出して、記憶をたどりながら素描しはじめた。どこかで水の音がした。二階の廊下を鍵の手にまがつたずつと奥のあたりで、誰かが水道の栓をひねつたらしい。音はすぐやんだ。空耳かも知れなかつた。ちよつと気になつたが、すぐ忘れた。
 鉛筆のついでに、例の小会堂風の空屋の印象を素描してみたりした。そのうちに僕の眼前を、あの外套《がいとう》みたいな灰色の軍服をきたロシヤの将校たちの姿が、ちらちらしはじめた。それがあの空屋を出たり入つたりする。ポーチの敷石に引きずる佩剣《はいけん》の音もする。……それが幻といふより夢に近かつたらしい。僕はいつのまにかうとうとしてゐたのだ。
 はつと目がさめた。何か音がしたと見える。しばらく耳をすましてゐたが、何も聞えない。僕はもう寝ようと思つて、いつもの習慣どほり、寝る前のうがひをしようと思つた。廊下へ出て、すぐ前の洗面室へはいつた。カランをひねらうとしてふと気がつくと、水盤は栓がしつぱなしで、濁つた水が八分目ほどたまつてゐた。そのうへ、そこらぢゆうに水がはねかつてゐる。明らかに僕の仕業ではない。僕はちよつと不愉快になつて小窓をあけ、そこからうがひの水を吐かうと思つた。
 空はすつかり曇つてゐるらしい。低い、押しつけるやうな闇だつた。その中へ、咽喉《のど》の水を吐きだした途端に、ほら、ちやうど先刻みたいなギギーッと裂くやうな啼声《なきごえ》と、けたたましい羽ばたきがしたのさ。不意のことだし、不愉快になりかけてゐた矢先のことだしするので、そのぎよつとした感じが、しこりのやうに残つて変に腹だたしく、暫《しばら》くは寐《ね》つけなかつた。
 あくる日は晴れだつた。僕は昨夜の予定どほり、朝のうちから博物館へ出かけた。案内記で大体の見当はつけてゐたが、こんな半島の先つぽ、しかも戦蹟《せんせき》としてばかり名高いこの町に、よくもあれだけの博物館があつたものだ。はじめの幾室かは仏像の蒐集《しゅうしゅう》だつた。僕はもちろん、仏像のことはよく分らない。だが、ぼんやり眺めてゐることは好きだ。朝鮮の頃はさうでもなかつたが、満洲ではついぞそんな心の休まるやうな時にめぐまれなかつた。僕はだんだん引き入れられるやうに一つ一つケースを覗《のぞ》いて廻
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