ある。そこへ今度の大乱である。貞阿はそんな話をして、序《つい》でに一慶和尚の自若たる大往生《だいおうじょう》ぶりを披露した。示寂の前夜、侍僧に紙を求めて、筆を持ち添へさせながら、「即心即仏、非心非仏、不渉一途、阿弥陀仏」と大書《たいしょ》したと云ふのである。玄浴主は、いかさま禅浄一如の至極境、と合槌《あいづち》を打つ。
 客は湯冷めのせぬうちに、せめてもう一献《いっこん》の振舞ひに預《あずか》つて、ゆるゆる寝床に手足を伸ばしたいのだが、主人の意は案外の遠いところにあるらしい。それがこの辺から段々に分つて来た。尤《もっと》も最初からそれに気が附かなかつたのは、貞阿の方にも見落しがある。第一|殆《ほとん》ど二年近くも彼は玄浴主に顔を見せずにゐた。応仁の乱れが始まつて以来の東奔西走で、古い馴染《なじみ》を訪ねる暇もなかつたのである。自分としては戦乱にはもう厭々《あきあき》してゐる。しかし主人の身になつてみれば、紛々たる巷説《こうせつ》の入りみだれる中で、つい最近まで戦火の渦中に身を曝《さら》してゐたこの連歌師《れんがし》の口から、その眼で見て来た確かな京の有様を聞きたいのは、無理もない次第に違ひない。しかも戦乱の時代に連歌師の役目は繁忙を極めてゐる。差当《さしあた》つては明日にも、恐らく斎藤|妙椿《みょうちん》のところへであらう、主命で美濃《みの》へ立たなければならぬと云ふではないか。今宵をのがして又いつ再会が期し得られよう。……そんな気構へがありありと玄浴主の眼の色に読みとられる。
 それにもう一つ、貞阿にとつて全くの闇中の飛礫《ひれき》であつたのは、去年の夏この土地の法華寺《ほっけじ》に尼公として入られた鶴姫のことが、いたく主人の好奇心を惹《ひ》いてゐるらしいことであつた。世の取沙汰《とりざた》ほどに早いものはない。貞阿もこの冬はじめて奈良に暫《しばら》く腰を落着けて、鶴姫の噂《うわさ》が色々とあらぬ尾鰭《おひれ》をつけて人の口の端《は》に上《のぼ》つてゐるのに一驚を喫したが、工合《ぐあい》の悪いことには今夜の話相手は、自分が一条家に仕へるやうになつたのは、そもそも母親が鶴姫誕生の折り乳母《うば》に上《あが》つて以来のことであるぐらゐの経歴なら、とうの昔に知り抜いてゐる。……
 主人の口占《くちうら》から、あらまし以上のやうな推察がついた今となつては、客も無下《むげ》に情《じょう》を強《こわ》くしてゐる訳にも行かない。実際このやうな慌《あわただ》しい乱世に、しかも諸国を渉《わた》り歩かねばならぬ連歌師の身であつてみれば、今宵の話が明日は遺言とならぬものでもあるまい。それに自分としても、語り伝へて置きたい人の上のないこともない。……さう肚《はら》を据《す》ゑると、銅提《ひさげ》が新たに榾火《ほたび》から取下ろされて、赤膚焼《あかはだやき》の大|湯呑《ゆのみ》にとろりとした液体が満たされたのを片手に扣《ひか》へて、折からどうと杉戸をゆるがせた吹雪《ふぶき》の音を虚空《こくう》に聴き澄ましながら、客はおもむろに次のやうな物語の口を切つた。

        *

 御承知のとほり、わたくしは幼少の頃より、十六の歳でお屋敷に上《あが》りますまで、東福寺の喝食《かっしき》を致してをりました。ちやうどその時分、やはり俗体のままのお稚児《ちご》で、奥向きのお給仕を勤めてをられた衆のなかに、松王《まつおう》丸といふ方がございました。わたくしより六つほどもお年下でございましたらうか、御利発なお人なつこい稚児様で、ついお懐《なつ》きくださるままに、わたくしも及ばずながら色々とお世話を申上げたことでございました。これが思へば不思議な御縁のはじまりで、松王様とはつい昨年の八月に猛火《みょうか》のなかで遽《あわただ》しいお別れを致すまで、ものの十八年ほどの長い年月を、陰になり日向《ひなた》になり断えずお看《み》とり申上げるやうな廻《めぐ》り合せになつたのでございます。あの方のお声やお姿が、今なほこの眼の底に焼きついてをります。わたくしが今宵の物語をいたす気になりましたのも、余事はともあれ実を申せば、この松王様のおん身の上を、あなた様に聞いて頂きたいからなのでございます。
 その頃は、先刻もお話の出ました雲章一慶さまも、お歳《とし》こそ七十ぢかいとは申せまだまだお壮《さか》んな頃で、かねがね五山の学衆の、或ひは風流韻事にながれ或ひは俗事|政柄《せいへい》にはしつて、学道をおろそかにする風のあるのを痛くお嘆き遊ばされて、日ごろ百丈清規《ひゃくじょうしんぎ》を衆徒に御講釈になつてをられました。その厳しいお躾《しつ》けを学衆の中には迷惑がる者もをりまして、今《いま》義堂などと嘲弄《ちょうろう》まじりに端《はし》たない陰口を利く衆もありましたが、御自身を律せられま
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