すことも洵《まこと》にお厳しく、十七年のあひだ嘗《かつ》てお脇を席《むしろ》におつけ遊ばした事がなかつたと申します。この御警策の賜物《たまもの》でございませう、わたくし風情《ふぜい》の眼にも、東福寺の学風は京の中でも一段と立勝《たちまさ》つて見えたのでございます。されば他の諸山からも、心ある学僧の一慶様の講莚《こうえん》に列《つら》なるものが多々ございました。その中には相国寺《しょうこくじ》のあの桃源|瑞仙《ずいせん》さまの、まだお若い姿も見えましたが、この方は程朱《ていしゅ》の学問とやらの方では、一慶さま一のお弟子であつたと伺つてをります。
このお二方はよく御同道で、一条室町の桃花坊(兼良邸)へ参られました。そのお伴にはかならず松王様をお連れ遊ばすのが例で、御利発な上に学問御熱心なこのお稚児《ちご》を、お二方ともよくよくの御鍾愛《ごしょうあい》のやうにお見受け致しました。わたくしが桃花坊へ上りました後々も、一慶さまや瑞仙さまが奥書院に通られて、太閤《たいこう》殿と何やら高声で論判をされるのが、表の方までもよく響いて参つたものでございます。さういふお席で、お伴について来られた松王様が、傍《かたわ》らにきちんと膝《ひざ》を正されて、易だの朱子だのと申すむづかしいお話に耳を澄ましてをられるお姿を、わたくしどももよく垣間見《かいまみ》にお見かけしたものでございました。
この松王様のことは、くだくだしく申上げるまでもなく、かねてお聞及びもございませう。右兵衛佐《うひょうえのすけ》殿(斯波義敏《しばよしとし》)の御曹子《おんぞうし》で、そののち長禄の三年に、義政公の御輔導役|伊勢《いせ》殿(貞親《さだちか》)の、奥方の縁故に惹《ひ》かされての邪曲《よこしま》なお計らひが因《もと》で父君が廃黜《はいちゅつ》[#ルビの「はいちゅつ」は底本では「はいちゅう」]の憂《う》き目にお遇ひなされた折り、一時は武衛《ぶえい》家の家督を嗣《つ》がれた方でございます。それも長くは続きませず、二年あまりにて同じ伊勢殿のお指金《さしがね》でむざんにも家督を追はれ、つむりを円《まる》められて、人もあらうにあの蔭凉軒《おんりょうけん》の真蘂西堂《しんずいせいどう》のもとに、お弟子に入られたのでございました。このお痛はしいお弟子入りについては、色々とこみ入つた事情もございますが、掻撮《かいつま》んで申
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