の日の兵火に三宝院の西は近衛《このえ》殿より鷹司《たかつかさ》殿、浄華院、日野殿、東は花山院殿、広橋殿、西園寺《さいおんじ》殿、転法輪《てんぽうりん》、三条殿をはじめ、公家《くげ》のお屋敷三十七、武家には奉行《ぶぎょう》衆のお舎《やど》八十ヶ所が一片の烟《けむり》と焼けのぼりました。最早やかうなりましては、次の火に桃花坊の炎上は逃れぬところでございます。お屋敷の方はともあれかし、この世の乱れの収まつたのち、たとへ天下はどのやうに変らうとも、かならず学問の飢《かつ》ゑが来る、古《いにし》への鏡をたづねる時がかならず来る。あのお文倉《ふみぐら》だけは、この身は八つ裂きにならうとも守り通さずには措《お》かぬと、わたくしは愈※[#二の字点、1−2−22]覚悟をさだめ、水を打つたやうなしいんとした諦《あきら》めのなかで、深く思ひきつたことでございました。さりながら、思へば人間の心当てほど儚《はかな》いものもございません。わたくしがそのやうに念じ抜きました桃華文庫も、まつたく思ひもかけぬ事故《ことゆえ》から烏有《うゆう》に帰したのでございます。……
貞阿はほつと口をつぐんだ。流石《さすが》に疲れが出たのであらう、傍《かたわ》らの冷えた大|湯呑《ゆのみ》をとり上げると、その七八分目まで一思ひに煽《あお》つて、そのまま座を立つた。風はいつの間にかやんでゐる。厠《かわや》の縁に立つて眺めると、雪もやがて霽《は》れるとみえ、中空には仄《ほの》かな光さへ射してゐる。ああ静かだと貞阿は思ふ。今しがたまで自分の語り耽《ふけ》つてゐた修羅黒縄《しゅらこくじょう》の世界と、この薄ら氷《ひ》のやうにすき透つた光の世界との間には、どういふ関はりがあるのかと思つてみる。これは修羅の世を抜けいでて寂光の土にいたるといふ何ものかの秘《ひそ》やかな啓《あか》しなのでもあらうか。それでは自分も一応は浄火の界《さかい》を過ぎて、いま凉道蓮台の門《かど》さきまで辿《たど》りついたとでも云ふのか。いや何のそのやうな生易《なまやさ》しいことが、と貞阿はわれとわが心を叱《しか》る。京の滅びなど此《こ》の眼で見て来たことは、恐らくはこの度の大転変の現はれの九牛《きゅうぎゅう》の一毛にしか過ぎまい。兵乱はやうやく京を離れて、分国諸領に波及しようとする兆《きざ》しが見える。この先十年あるひは二十年百年、旧《ふる》いもの
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