ります。かてて加へて諸国より続々と上つてまゐる東西両陣の足軽《あしがる》と申せば、昼は合戦、夜は押込みを習ひとする輩《やから》ばかり、その荒々しい人相といひ下賤《げせん》な言葉つきと云ひ、目にし耳にするだに身の毛がよだつ思ひでございました。さうなりますと最早や戦さなどと申すきれい事ではございません。昼日なかの大路を、大刀《たち》を振りかざし掛声《かけごえ》も猛に、どこやらの邸《やしき》から持ち出したものでございませう、重たげな長櫃《ながびつ》を四五人連れで舁《か》いて渡る足軽の姿などは、一々目にとめてゐる暇《いとま》もなくなります。築地《ついじ》の崩れの陰などでは、抜身《ぬきみ》を片手に女どもをなぐさんでをります浅ましい有様が、ちよつと使に出ましても二つや三つは目につきます。夜は夜で近辺のお屋敷の戸|蔀《しとみ》を蹴破《けやぶ》る物音の、けたたましい叫びと入りまじつて聞えて参ることも、室町あたりでさへ珍らしくはございません。まことにこの世ながらの畜生道《ちくしょうどう》、阿鼻《あび》大城とはこの事でございませう。
 そのやうな怖ろしいことが来る日も来る夜も打続いてをりますうち、六月八日には、遂《つい》に一大事となつてしまひました。その午《うま》の刻ばかりに、中御門猪熊の一色《いっしき》殿のお館に、乱妨人が火をかけたのでございます。それのみではございません。近衛《このえ》の町の吉田神主の宅にも物取りどもが火を放つたとやら、忽《たちま》ちに九ヶ所より火の手をあげ、折からの南の大風に煽《あお》られて、上京《かみぎょう》の半ばが程はみるみる紅蓮《ぐれん》地獄となり果てました。火焔《かえん》の近いことは五月の折りの段ではなく、吹きまく風に一時は桃花坊のあたりも煙をかぶる仕儀となりまして、わたくしは最早やお庭を去らず、お文庫の瓦《かわら》屋根にじつと見入りながら、最後の覚悟をきめたほどでございました。屋根をみつめてをりますと、その上を這《は》ふ薄い黒煙のなかに太閤《たいこう》様のお顔が自然かさなつて見えて参ります。あの名高い江家《ごうけ》文庫が、仁平《にんぺい》の昔に焼亡して、闔《とびら》を開く暇《いとま》もなく万巻の群書片時に灰となつたと申すのも、やはり午《うま》の刻の火であつたことまでが思ひ合はされ、不吉な予感に生きた心地もございませんでした。幸ひこの火も室町|小路《こうじ
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