《よくす》のところで一夜の宿を頼まうと、この門の形を雪のなかに見わけた途端に貞阿は心をきめた。
玄浴主は深井《じんじ》坊といふ塔頭《たっちゅう》に住んでゐる。いはゆる堂衆の一人である。堂衆といへば南都では学匠のことだが、それを浴主などといふのは可笑《おか》しい。浴主は特に禅刹《ぜんさつ》で入浴のことを掌《つかさど》る役目だからである。しかし由玄はこの通り名で、大|華厳寺八宗兼学《けごんじはっしゅうけんがく》の学侶のあひだに親しまれてゐる。それほどにこの人は風呂好きである。したがつて寝酒も嫌ひな方ではない。貞阿のひそかに期するところも、実はこの二つにあつたのである。
その夜、客あしらひのよい由玄の介抱で、久方ぶりの風呂にも漬《つか》り、固粥《かたかゆ》の振舞ひにまで預つたところで、実は貞阿として目算《もくさん》に入れてなかつた事が持上つた。雪はまだ止《や》む様子もない。風さへ加はつて、庫裡《くり》の杉戸の隙間《すきま》から時折り雪を舞ひ入らせる。そのたびに灯の穂が低くなびく。板敷の間の囲炉裏《いろり》をかこんで、問はず語りの雑談が暫《しばら》く続いた。
貞阿は主人の使で、このあひだ兵庫の福原へ行つて来た。主人といふのは関白一条|兼良《かねら》で、去年の十一月に本領|安堵《あんど》がてら落してやつた孫|房家《ふさいえ》の安否を尋ねに、貞阿を使に出したのである。兵庫のあたりはまだ安穏な時分なので、須磨の浦もその足で一見して来た。貞阿はそこの話をした。それから話は自然、いま家族を挙げて興福寺の成就院に難を避けて来てゐる関白のことに移つて、太閤《たいこう》もめつきり老《ふ》けられましたな、などと玄浴主が言ふ。とつて六十八にもなる兼良のことを、今さら老けたとは妙な言艸《いいぐさ》だが、事実この矍鑠《かくしゃく》たる老人は、近年めだつて年をとつた。それは五年ほど前に腹ちがひの兄、東福寺の雲章一慶が入寂し、引続いて同じ年に、やはり腹ちがひの弟の東岳|徴※[#「日+斤」、第3水準1−85−14]《ちょうきん》[#ルビの「ちょうきん」は底本では「ちょうき」]が遷化《せんげ》して以来のことである。肉親の兄弟でもあり、学問の上の知己でもあつたこの二人の禅僧を喪《うしな》つて、兼良生来の勝気な性分もめつきり折れて来た。あの勧修念仏記《かんじゅねんぶつき》を著したのはその年の秋のことで
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