れた折節、兵火の余烟《よえん》を遁《のが》れんものとその近辺の卿相雲客《けいしょううんかく》、或ひは六条の長講堂、或ひは土御門《つちみかど》の三宝院《さんぽういん》へ資財を持運ばれた由《よし》が、載せてございますが、いざそれが吾身《わがみ》のことになつて見ますれば、そぞろに昔のことも思ひ出《い》でられて洵《まこと》に感無量でございます。この度の戦乱の模様では、京の町なかは危いとのことで、どこのお公卿《くげ》様も主に愛宕《あたご》の南禅寺へお運びになります。一条家でも、御|縁由《ゆかり》の殊更《ことさら》に深い東山の光明峰寺《こうみょうぶじ》をはじめとし、東福、南禅などにそれぞれ分けてお納めになりました。京ぢゆうの土倉、酒屋など物持ちは言はずもがな、四条《しじょう》坊門、五条油|小路《こうじ》あたりの町屋の末々に至るまで、それぞれに目ざす縁故をたどつて運び出すのでございませう、その三四ヶ月と申すものは、京の大路小路は東へ西への手車小車に埋めつくされ、足の踏《ふ》んどころもない有様。中にはいたいけな童児が手押車を押し悩んでゐるのもございます。わたくしも、その絡繹《らくえき》たる車の流れをかいくぐるやうに、御家財を積んだ牛車《ぎっしゃ》を宰領して、幾たび賀茂の流れを渡りましたやら。その都度、六年前の丁度《ちょうど》この時節に、この河原に充《み》ち満ちてをりました数万の屍《しかばね》のことも自《おの》づと思ひ出でられ、ああこれが乱世のすがたなのだ、これが戦乱の実相なのだと、覚えず暗い涙に咽《むせ》んだことでございました。
室町のお屋敷には、桃華文庫と申す大切なお文倉《ふみぐら》がございます。これも文和《ぶんな》の昔、後芬陀利花《ごふだらく》院さま(一条|経通《つねみち》)御在世の砌《みぎり》、折からの西風に煽《あお》られてお屋敷の寝殿《しんでん》二棟《ふたむね》が炎上の折にも、幸ひこの御秘蔵の文庫のみは恙《つつが》なく残りました。瓦《かわら》を葺《ふ》き土を塗り固めたお倉でございますので、まあ此度《このたび》も大事《だいじ》はあるまいと、太閤《たいこう》さまもこれには一さい手をお触れにならず、わざわざこのわたくしを召出されて、文庫のことは呉々《くれぐれ》も頼むと仰せがございました。お屋敷に仕へる青侍《あおさぶらい》の数も少いことではございませんが、殊更《ことさら》わたくし
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