の御|悲歎《ひたん》は申すまでもございません。南禅相国両大寺の炎上ののちは、数千人の五山の僧衆、長老以下東堂西堂あるいは老若《ろうにゃく》の沙弥喝食《しゃみかっしき》の末々まで、多くは坂下《さかもと》、山上《やまのうえ》の有縁《うえん》を辿《たど》って難を避けておられる模様でございましたので、その御在所御在所も随分と探ねてまわりました。瑞仙様が景三、周鱗《しゅうりん》の両和尚と御一緒に往っておられます近江の永源寺、あるいは集九様のおられる近江の草野、または近いところでは北岩倉の周鳳《しゅうほう》様のお宿、それに念のため薪《たきぎ》の酬恩|庵《あん》にお籠《こも》りの一休様のところまでも探ねてみましたが、お行方は遂《つい》に分らず、その年も暮れ、やがて応仁二年の春も過ぎてしまいました。
そのうち毘沙門《びしゃもん》の谷には、お移りになりまして二度目の青葉が濃くなって参ります。明けても暮れても谷の中は喧《かしま》しい蝉時雨《せみしぐれ》ばかり。その頃になりますと、この半年ほど櫓《やぐら》を築いたり塹《ほり》を掘ったりして睨《にら》み合いの態《てい》でおりました東西両陣は、京のぐるりでそろ
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