名利が棄《す》てられぬ。信頼《のぶより》や信西《しんぜい》ほどの実行の力も気概もない。そして関白争いなどと云うおかしな真似《まね》をしでかしては風流学問に身をかわす。惜しい人物だ。それにつけても兄《あに》様の一慶和尚は立派なお人であったぞ。いまだに覚えている、『儒教デモ善ト云フモ悪ニ対スルホドニ善ト悪トナイゾ、中庸ノ性ト云フタゾ』などと、幼な心に何の事とも分らず聞いておったあの咄々《とつとつ》とした御音声《ごおんじょう》が、いまだに耳の中で聞えている。そもそも俺のような下品下生《げぼんげしょう》の男が、実理を覚《さと》る手数を厭《いと》うて空理を会《え》そうなどともがき廻るから間違いが起る。そうだ、帰るのだ、やっと分ったよ。虎関、夢窓、中巌、義堂、そして一慶さま……あの懐しい師匠たちの棲《す》まう伝統へ、宋《そう》の学問へ、俺は帰るのだ。」
 そこでようやく言葉を切られますと、そのまま石からお腰を上げて、こちらは見向きもなさらず丘を下りて行かれます。わたくしは呆《あき》れて追いすがり、「ではこの先どこへおいで遊ばす」と伺いますと、「明日にも近江へ往く、あの瑞仙和尚がおられるのだ。何か言
前へ 次へ
全65ページ中56ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
神西 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング