》ない浅瀬に、或る時は都市の中央に架《かか》つた巨大な橋の下に。その年、夏ちかく川筋一帯を襲つた浅ましい「不景気」のため、此の船は一と月あまりの間も明石|河岸《がし》にへたばり着いたまま死んだものの様に動かなかつた。父親は乏しい質草《しちぐさ》を次から次へと飲みあげ、濁声《だみごえ》で歌を唄《うた》ひ、稀《まれ》には「女」といぎたなく船底にもぐつて眠つた。定は陸《おか》を怖れてゐたので街をうろつくことは無かつたものの、その様な夜更けには板子の上に突つ起《た》つてはげしく然《しか》し声もなく月に向つて吠《ほ》えわめいた。彼が花子を恋する様になつたのはそんな夜の一つであつた。[#「一つであつた。」は底本では「一つであつた」]
定は闇の中にぢつと何かを見つめて立つてゐた。彼にはそれが何なのか解らなかつた。唯《ただ》其処《そこ》から鈍い光りがにぢみ出てゐるのには相違なかつた。昼のあひだの酷《ひど》い暑気に蒸された川の面の臭ひに夜更けの冷気がしんしんと入れ混つて、たとへば葦間《いかん》の腐臭を嗅《か》ぐやうな不思議な匂《におい》を有《も》つた靄《もや》が、風が無いのでヒソリともしない水面低く立ち迷つてゐた。犬のやうにクンクンと鼻を鳴らしながら定は自分が深いところへと落ち込んで行くのを感じた。定はふらふらと仄光《ほのあかり》の方へよろめき動いた。軈《やが》て燈火は彼の眼した三|間《けん》のあたりに現はれた。彼はそれがすぐ傍に繋《つなが》れたステラの船室から漏《も》れる明るさなのを了解した。そのとき引き残された窓布のすきに妙に黄ぼけた腓《こむら》がふと動いた。彼はすばやく別の舷《ふなばた》へと跳び移つた。その拍子に蹴込《けこ》んだらしい小石か何かの立てた鈍い水音を定は耳殻の後方に聞き流した。船室の屋根の手欄につかまりながら何故《なぜ》ともなしに上方を仰いだ彼の眼に、夥《おびただ》しい星影がまるで砂礫《されき》か何かのやうに無意味であつた。船の揺れはぢきに止つた。定は屈《かが》み込んで船扉を引き上げた。彼の眼にうつつた狭い船室の内部は思つたよりも煌々《こうこう》として居、其処にただ一の陰影しか残されてはゐなかつた。
そのとき花子は二十、定は二つ歳下の十八であつた。
しかし恋の楽欲《ぎょうよく》を先《ま》づ了解したのは寧《むし》ろ花子であつた。彼女は自分の肉体が女王に、自分の精神が奴隷《どれい》になり果てるのを急激に経験し理解した。彼女にとつてそれが恋の死ぬばかりの快よさの全部であつた。定はこの様な花子の前に俘囚《ふしゅう》のやうに盲従しなければならない自分の位置を間もなく知つた。夏になり、やがて暦のうへでの夏が畢《おわ》つた。残暑の日が長たらしく続き、それが水の上の生活を沙漠《さばく》に咲き誇る石鹸天《さぼてん》の様に荒廃させた。密度の高い瘴気《しょうき》が来る日も来る日も彼等の周囲を罩《こ》めて凝固してゐた。白昼の太陽が別の世界の太陽でもあるかのやうに実に高い所でくるめいた。暑い瘴気の層を透して人々は昼の星宿の回転する響音を聴いた。そんな真昼どき花子は定に自分の姙娠《にんしん》を告げた。彼女は晩夏の花のやうに傲慢《ごうまん》に唇をそらした。定は黙つて彼女を聴き、聴き畢ると眼を真昼の星宿の方へと投げた。彼は自分の裡《うち》に判然《はっきり》とした形をとつた花子への「憎悪」をはじめて此《こ》の時に感じた。彼の心は悲哀に満ち、彼には蒼《あお》ざめた星宿が無性になつかしかつた。
憎悪といへば娘の姙娠についてステラの船長は定よりももつと致命的な憎悪を感じた。彼はチョッキの前を掻《か》きむしり乍《なが》ら嗚咽《おえつ》しわめいた。――「お前のお母さんを見ろ! 立派なお邸《やしき》の『奥女中』として陸の上で歴乎《れっき》として暮しをしてゐるではないか。『御前《ごぜん》様』がくたばれば大した遺産の分け前も約束されてゐるのだ。俺《おれ》はどうせ下積で死ぬとしてもせめてお前だけはお母さんに『恥しくない』立派な身分に仕立て上げたかつたのに! 今では俺の苦心も水の泡だ。しかも相手もあらうに風来船の青二才なんかと! この恥知らずの女《あま》め!」船長は力に任せて花子を引き倒した。花子がドサリと横に倒れその重みで船が傾《かし》ぐほど揺れて激しい水音が舷側《げんそく》にすると、彼は見る見る狂暴になつた。船長は床の上から鉄のハンドルを掴《つか》むと娘の腿《もも》のあたりを所きらはず乱打した。鉄の棒に響いて来る彼女の肉体の強靱《きょうじん》な弾力を残忍な位ヒシヒシと心に感じながら。そこへ定が現はれた。争闘は短かかつた。船長は鞠《まり》の様にすばやく転び上ると何やら激しく叫び立て乍《なが》ら逃れ去つた。逃げしなに彼の投げた手裏剣《しゅりけん》、青|痰《たん》の一塊《
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