して見てゐると眼の下の骨が見えるよ。」
「気が附いた? ――私お父さんにぶたれ通しだもの。それに赤ちやんが出来ると瘠《や》せるものなのよ。」
「ちつとも嬉《うれ》しい気持なんかしないの?」
「なぜ嬉しいの?」
「僕はその赤ん坊をどうしても陸の子にしてやらうと思ふんだよ。陸の子には僕たちの知らない色んな珍らしい物や事があるにきまつてるもの。僕たちの赤ん坊はきつと思ひがけない幸福に出逢《であ》ふ様な気がするんだよ。」
「………………」
「なぜ黙てゐるの。――おや! 立つてこつちへ来てご覧よ。垣根の間から立派なお邸《やしき》が見えるよ。さつき赤ん坊の欷《な》いてゐたお邸《やしき》だ。たくさん燈《あか》りがついてゐる。随分ひろびろしたお庭だ。もう赤ん坊は欷いてゐない。きつとお乳を呑《の》んでゐるんだね。」
「何もこんな立派なお邸でなくつてもいいんだよ。陸の上でさへあれば。」
「私こんな気がする。赤ちやんが生まれないさきに私はきつと殺されてしまふ。いぢめ殺されてしまふ。」
「逃げよう。陸《おか》へ逃げて隠れてゐよう。」
「それが出来ると思つて? 私の叔父《おじ》さんを知つてるわね。あの叔父さんが昨日来てお父さんと話しをしてゐた。」
「え! 叔父さんが? ……」

 その夜から数日ののち、夕暮どきの混雑にまぎれて二人の幼い恋人たちは或る造船所の裏手から一隻の破れた小舟を盗み出して隅田川の下流に近い埋立地の溝渠《ほりわり》を漕《こ》ぎ上つて行つた。そして淋《さび》しい場所に出ると彼等は葭《あし》の間に舟をかくして夜の更けるのを待つた。花子が寒さに顫《ふる》へるのを定は膝《ひざ》の上にぢつと抱きしめてやつた。彼は絶えず美しい夢を見た。二人は殆《ほと》んど口をきかなかつた。やがて真夜中が来たとき、彼等は舟を流れの中ほどに出しお互《たがい》の身体をしつかりと結び付けて舟を静かに倒した。ごく低い水音がして瀝青《れきせい》と芥《あくた》の波が少し立つた。その夜は月が無かつた。彼等は一たん底まで沈んだが、やがて浮き上つて来たときには泥を含んだ藁屑《わらくず》を肩や顔にかぶつて醜くかつた。花子がまだ時々身を※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》くたびに藁屑の上で夜光虫が青い光を放つた。暫《しばら》くすると二人は河底の深い泥の中に再び沈み込んで夜通し其処《そこ》でぢつとしてゐた。引き潮に押されて彼等が東京湾へ出たのは暁方《あけがた》ちかい頃であつた。



底本:「日本幻想文学集成19 神西清」国書刊行会
   1993(平成5)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「神西清全集」文治堂
   1961(昭和36)年発行
初出:「文学」
   1930(昭和5)年3月発行
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:川山隆、小林繁雄、Juki
2008年1月4日作成
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