だつたさうである。


 A氏はこの話をして、「全く独り言でもうつかりした事は言へないものだ」と感慨ぶかさうに繰り返すのだつたが、これを聞いてゐた日本人のB(これは僕の友人で、対蘇《たいソ》貿易に従事してゐる或る会社に勤めてゐる。僕はこのBの口からこれらの挿話を又聞きに聞いたのである――)も、頗《すこぶ》るこの話に興味をそそられた。で或る時、これも北鉄のことで滞京してゐる技師Cにその話をし、君も何か面白い話の種を持つてゐないかねと尋ねた。するとモスクヴァつ児《こ》であるC技師は、にやりと一笑して、次のやうな譬喩《ひゆ》を以て答へた。
 ……ウクライナのさるところに猟の名手がゐた。あるとき虎狩りに出かけて行つて、かういふ土産《みやげ》話をした。
 僕がさる淋《さび》しい谷間に辿《たど》りついて、ふと前方を見ると、遥か彼方《かなた》の丘の蔭から何と虎の頭がのぞいてゐるぢやないか。僕は勇躍|狙《ねら》ひをさだめ、ずどんと一発ぶつ放した。勿論《もちろん》みごとに命中して、虎の頭はがくりと落ちて見えなくなつた。仕澄ましたりと僕は歩み寄る。と何歩も行かぬうちに、又してものそりと虎が頭を出した。はてな、仕損じたかなと僕は思つて、再び狙ひを定めてぶつ放した。今度もたしかに手ごたへあつて、黄色い頭は丘のうしろにがくりと落ちた。大丈夫だらうとは思つたが、万一の用心に暫《しばら》く様子を窺《うかが》つた。今度は参つたと見えて、頭はそれなり現はれない。そろそろと僕は歩み寄る。するとまあ何としたことだ、又してもむつくり黄色い頭がもちあがつたぢやないか。何たる往生際《おうじょうぎわ》の悪い奴《やつ》だ、と僕は思はず舌うちしたね。そこで再び銃をとり直し、慎重の上にも慎重に狙ひを定めて火蓋《ひぶた》を切つた。何しろこの僕が腕に縒《よ》りをかけた一発だ。頭は三たび丘の蔭に落ちたんだ。今度こそは大丈夫とは思つたが、それでも十分ばかりは様子を窺つてゐたね。相手が頗る獰猛《どうもう》な奴かも知れんからな。しかし今度は参つたと見えて一向頭は現はれない。そこでそろりそろりとその丘を登つて、こつそり樹蔭《こかげ》から現場を覗《のぞ》いて見た。……どうだい、わかるかね。僕がそこに何を見出したと思ふかい?
 さあ、分からんなあ、と相手が答へる。
 なあに君、虎が三匹枕を並べて討死《うちじに》したまでの話さ。……
 モスクヴァ生れのC技師はここまで話して、からからと大口あけて笑つた。日本人のBはそこで、C氏がこの譬喩でもつてA氏をも含めての南露人の法螺《ほら》吹きの一面を笑ひ飛ばしたことを卒然として悟つたが、さりとてあの令嬢の一件をまんざらA氏の千|三《み》つ――否、虎|三《み》つ振りだとも断定できないのを感じた。
 よしんばあの話が、A氏の裡《うち》のやみがたい郷愁の語らせた作り話であるにしても、それならそれで美しいではないかとも思はれたし、またA氏の持つかなり観察の鋭い一面も知つてゐて、さうさう与太を飛ばす人ではないやうに思つてゐたからである。そのA氏の観察の細かさについては、例へば次のやうな挿話がある。


 或る日のことBは商用のためA氏に附き添つて東北方面へ旅行した。車中の無聊《ぶりょう》を紛らすため、Bは近頃になつて習ひ覚えた西洋将棋の盤を出して、かねがねその道の達人と聞いてゐるA氏に挑戦した。A氏も固《もと》より異存のある筈《はず》がない。二人は忽《たちま》ち夢中で駒《こま》を動かしはじめた。
 それは半分に仕切つた二等車だつた。唯《ただ》でさへ碁将棋には物見だかい日本人のことだから、一人寄り二人集まりして、しまひには乗り合はした五六人の客は残らず盤のまはりに顔を並べてしまつた。
「へえ、桂馬《けいま》が後びつしやりしますのかい?」
 などと頓狂《とんきょう》声を上げる商人風の男もあつた。中でも一ばん熱心に観戦してゐたのは、一人の海軍下士官だつた。二三局目になると、殆《ほとん》ど駒の動き方を覚えてしまひ、自分でも手を出し兼ねないやうな勢ひで、逃げ廻つてゐるBの王様に盛んに声援を与へたりした。
 やがて汽車が海軍の飛行場のあるといふ駅に着くと、下士官はあわてて荷物をまとめて下りて行つた。そこでBは初めて、その男が航空隊の人だつたことに気がついた。
「ねえAさん、さつきの将棋の好きな男、誰だか知つてゐますか? あれは飛行家なんですよ。」とBは、数番たてつづけに敗けたあとでA氏に言つて見た。するとA氏は別に意外でもないといつた顔つきで、かう答へた。
「ああ飛行家か。いや多分機関士だらうぜ。僕は前から気がついてたのさ。」
「どうして分かるんです? あの徽章《きしょう》でですか?」
「いや、僕には日本の軍人の徽章なんかちつとも分からんさ。僕があの人を機関士だと断定したのは、
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