から手をはなす瞬間だけは気をつけないとあぶない。その時そつとうしろから手を持ち添へてやれば、ひとりでにまた元の場所に仰向《あおむ》けに寝てしまふ。決してあわてて声を立てたり、揺りおこさうなどとしてはいけない……まあそんな話でした。
そんな話をしてくれる保姆《ほぼ》さんと一しよに千恵がこはごはじつと見てゐると、その子は手すりに両手をかけたまま、まんじりともせずに中有《ちゅうう》をみつめてゐました。うつろな大きな眼でした。昼間みると青々と澄んだきれいな眼をした子なのでしたが、とろんと黄いろい電燈のしたで見るせゐでせうか、まるで浮きあがつた魚のやうな気味のわるい白眼に見えました。瞳孔《どうこう》もかなり大きく開いてゐるのですが、それの向いてゐる先は天井ともつかず壁ともつかず、かといつて真ん前からさし覗《のぞ》いてゐる保姆さんの顔でも千恵の顔でも勿論《もちろん》ありません。まるで何かそのへんにふわふわ漂つてゐるものがあつて、それにぼんやり見とれてゐでもするやうな様子でした。思ひなしかその視線は、じわじわと移つてゆくやうでもあります。けれどその動きは、決してあの分針の動きより速くはないやうに思はれました。……「覚めてゐるのでせうか?」と千恵は小声できいてみました。「さうではないでせう」と保姆さんが答へます。「これで笑ふか泣くかしてくれると、まだしも助かるんだけれどねえ……」まつたく保姆さんの言ふ通りでした。ものの三四分ほど、そんなふうにじつと立つてゐたあとで、その子はやがてそろそろと用心しいしいお尻《しり》をうしろへ突きだすやうにして腰を沈めると、ふわりと手を手すりからはなして、また仰向けに寝てしまひました。「ね、あの腰つきを見たでせう? ああしながらこの子はおしつこを漏《も》らすんですよ」と保姆さんは言ひながら、物馴《ものな》れた手つきでその子の前をはだけて、おむつを替へてやるのでした。千恵の手に渡された濡《ぬ》れたおむつには、なるほど湯気でも立ちさうな尿温がありました。……
「ああ厭《いや》だ厭だ、もし自分にこんな子が生まれたら……」ふと千恵はさう思ひ、反射的にハッとしました。「済まない、こんなことを思つて!」と、部屋の隅にある洗濯物の籠《かご》へそのおむつを投げ入れながら、千恵は胸のなかで何ものかに手を合せました。本館に寝たままでゐる母親のいのちも、どうやら危いらしいといふ話でした。
三晩目のことです。病院にはさすがに停電こそありませんが、その晩は殊《こと》のほか電圧がさがつてゐるらしく、只《ただ》でさへうす暗い電球はどれもみんな、なかの繊《ほそ》い線が赤ぼんやりと浮いて見えるほどでした。交代になつて出た頃には子どもはみんな寝しづまつてゐて、寝つきのわるいのが癖の窓ぎはの赤んぼまでが、その晩はふしぎなほど穏やかでした。時をり隣の部屋から、まだ生まれたての赤んぼらしく、ひ弱さうな嗄《しわが》れた泣声がほそぼそと聞えて、またぱつたり絶えてしまひます。それが却《かえ》つてこちらの部屋の静けさを深めるのでした。例の古参の保姆さんはその晩は非番で、代りにゐるのはちよつと目に険のある若い人でした。もちろんその晩が初対面で、千恵が「どうぞよろしく」と丁寧に挨拶《あいさつ》しても、こくりと一つうなづいたきりで、ちやうどその時むづかりだした子の方へさつさと行つてしまひました。おそるおそるそのあとからついて行つた千恵には目もくれず、さつさと自分でおむつの処置をして寝せつけてしまふと、それなり壁ぎはの椅子《いす》にかけて雑誌か何かを読みはじめました。そんな取りつく島もないやうな人でしたので、千恵はなんだか一そう心細く、いつそ誰か子どもが二三人いちどきに泣きだしでもしてくれたら気がまぎれるのにと、すやすや寝息をたててゐる赤んぼの顔をそろそろ覗《のぞ》いて廻りながら、妙に怨《うら》めしい気持がしたほどでした。
やがてどこか遠いところで時計が一つ鳴りました。腕時計を見ると十時四十分です。そろそろあの子が寝ぼけだす頃だと思つて、千恵は保姆《ほぼ》さんと反対側の壁ぎはの椅子をはなれて、そつとその子のベットのそばへ寄つて行きました。かなり大きく薄眼をあけて、よく寝てゐる様子です。口も半びらきになつて、よだれが出てゐます。そつとガーゼで拭《ふ》いてやりました。青ぶくれの顔が却《かえ》つて透きとほるやうに見え、へんに不気味な大人つぽい感じなのですが、よく見るとさう悪い顔だちでもありません。きつとこの子は父親似なのだらうと思ひました。なんとなくそんな気がしたのです。しばらくその顔を見守つてゐましたが、べつに起きだすやうな気色《けしき》はなく、身じろぎ一つしません。薄く開いてゐる目蓋《まぶた》のあひだが、なんだか青い淵《ふち》のやうでした。……
そんなふうにしてどのくらゐ時間がたつたか知りません。五分か、たぶん十分にはならなかつたと思ひます。ふと千恵は何か白いものの気配を目の端に感じて、その方をふり向きました。そこは廊下の窓でした。その窓のそとから、姉さまがじつとこちらを見てゐました。……その白い顔が姉さまだといふことは千恵にはすぐ分りました。驚くひまも、あわてるひまもなかつたほどでした。暗い廊下の闇のなかに、くつきりと浮びあがつてゐる白い顔。それがもし姉さまの稍※[#二の字点、1−2−22]《やや》面《おも》やつれのした尖《とが》つたやうなお顔でなかつたら、千恵は却つて恐怖の叫びをあげたかも知れないのです。千恵は動じませんでした。落ちついてさへゐました。じつと姉さまの顔を見返しながら、「大丈夫、千恵の方は逆光線になつてゐる……」とそんな意識が心のどこかにあつたほどです。それでも動いたり顔色を変へたりしてはいけないと思ひました。姉さまは大きな眼で、食ひいるやうにこちらを見てゐましたが、そのくせ千恵には気づいてもゐず、眼の行く先もすこし外れてゐることが、すぐに分つたのです。でも、そのそれてゐる視線の先にやがて気がついたとき、千恵は思はずアッと声を立てるところでした。青ぶくれの男の子が起きあがつてゐたのです。いつのまにか、音もなく、まるで姉さまの眼の磁気に吸はれでもしたやうに立ちあがつて、手すりにつかまりながら、じつと姉さまの方を見てゐるらしい様子でした。……
………………………………………
サラサラと衣ずれの音がして、すぐ後ろで人の気配が迫りました。ぎよつとして振り返ると、あの若い保姆さんでした。「また来たわね。ふん、厭《いや》んなつちまうね」と、ぞんざいな妙にガサガサした声で保姆さんは言ふと、千恵の顔にちらりと嘲《あざ》けるやうな眼を投げ、かなり手荒くその男の子をうしろ抱きにしてベットに寝かせました。子供はべつにもがくでもなく、弾力のなくなつたゴム人形みたいにそのまま寝息を立てはじめました。
ふと気がついて窓の方を見ると、顔はもう消えてゐました。
「あんた初めて? ぢや、ちよいとびつくりするわねえ」と保姆《ほぼ》さんは案外なれなれしげな調子で言つて、またちらりと千恵の顔を見ました。――
「特別室の患者さんよ、三日にあげずああして覗《のぞ》きに来るわ。」
「何かこの部屋に、縁のつながつた子供でもゐるのですの?」
「ばかな! この部屋にゐるのはみんな貧民の子ばつかりよ!」
保姆さんは吐きすてるやうに言ひましたが、またチラッと千恵の顔へ走らせた眼のなかには、何か憫《あわ》れむやうな微笑がありました。そしていきなり、
「あの人かはいさうに」と人さし指で自分のこめかみをトンと叩《たた》いて、「脳バイだつて噂《うわさ》もあるわ」と、思ひがけないことを言ひだしました。
千恵は呆気《あっけ》にとられました。といふより、何か金槌《かなづち》のやうなもので脳天をガアンとやられたやうな気持でした。その千恵の表情にまたチラッと眼を走らせた保姆さんは、何を勘ちがへしたものか「可哀《かわい》さうに!」とまるで千恵をあはれみでもするやうな調子でつぶやくと、
「初めてぢや無理もないけど、でもばかに感動しちまつたものねえ。……けどね。ちよつとばかり不気味ぢやあるけど、あの人ほんとは可哀さうな人なんだわ。聞きたい、あの人のこと? 変てこな縁で、あたしあの人のことは割合よく知つてるのよ。」
ますます意外な話の成りゆきに、千恵はすつかり固くなつて、「ええ」とも「いいえ」とも答へられず、Hさん(これがその保姆さんの名前でした)の顔を見つめてゐました。唇がわれにもあらず顫《ふる》へてゐました。顔色もさぞ蒼《あお》かつたことでせう。
おびえあがつたやうな千恵の様子を見ると、Hさんはたちまち態度が変つて、さも世話ずきらしいおしやべりな女になりました。それが地金《ぢがね》だつたのです。つまりHさんは、残忍と親切とを半々につきまぜた、世間によくあるあの単純な女の一人だつたのです。なりに似合はず臆病《おくびょう》な小娘にぶつかつて、これはいい睡気《ねむけ》ざましの相手が見つかつたと内々ほくほくしてゐるらしいことは、つい先刻まであんなに不愛想だつた一重《ひとえ》まぶたの小さな眼が、生き生きと得意さうに輝きだしてゐることからも察しがつきました。思へば不思議な一夜でした。千恵はじつと聴耳《ききみみ》をたててゐました。Hさんは時どき横目を千恵の顔のうへに走らせて、そこに紛れもない恐怖の色をたしかめると、また安心して話の先をつづけるのでした。風が出たらしく、松林がざわざわと鳴つてゐました。急に温度がさがつて、Hさんも、千恵もショールを控室《ひかえしつ》へとりにいつて、それを首へ巻きつけたほどでした。
その晩Hさんが千恵にしてくれた話といふのは、おほよそ次のやうなものです。Hさんは、あの姉さまの湯島の家とおなじ町内にある大きな薬局の娘なのでした。それで姉さまはもとより、Sの兄さまや潤太郎さんのことまで、前々からそれとなしに知つてゐたらしい上、S家の事情にもかなりよく通じてゐる模様でした。この奇遇を、千恵は感謝していいものかどうかは知りません。……
………………………………………
本郷の南から神田にかけての一帯が焼けたとき、Hさんはまだ産婆《さんば》学校へ通つてゐたので、やはり湯島の本宅で罹災《りさい》したのださうです。夜間の空襲がやつと始まつた頃のことで、「なあに大したことは……」といつた気分のまだまだ強かつた時分でした。その日ちよつと学校の帰りの遅くなつたHさんが暫《しばら》くぶりのお風呂にはいり、「さあ今のうちに寝とかなくちや」などと冗談を言ひながら二階の寝床へもぐりこんで、とろとろつとしたかしないかの間ださうです。隣に寝てゐた妹にいきなり手荒に揺りおこされ、ハッと気がついた拍子に、何やら自転車が二三台ほど空から降つて来でもしたやうな物音が、すぐ裏庭のあたりで立てつづけにしたと言ひます。あとはもう無我夢中で、暗がりの梯子段《はしごだん》をよくまあ踏みはづさなかつたと思ふくらゐ、下の座敷へ飛びこんでみると庭の雨戸はいつのまにか一枚のこらず外され、おやもう夜が明けるのかしらと思つたほど明るかつた。その中で甲斐々々《かいがい》しく立ち働らいてゐる人影が、お母さんやお祖母《ばあ》さんや若い女中だといふことにさへ咄嗟《とっさ》には気がつかなかつたさうです。そこへ縁先から飛びこんできた兄さんに何やら大きな声でどなりつけられ、やつと目が覚めたやうな思ひがしたのもほんの束の間で、あとはまたもや無我夢中。……「大学へ逃げろ。大学へ逃げろ」と、誰かの大声が耳のなかでがんがんするばかり、それにそこらぢゆう一面まるで花火をばら撒《ま》きでもしたやうな閃光《せんこう》で埋まつてゐるやうな気がしただけださうです。
Hさんがやつと炎の海に気づいた時は、大学病院寄りの電車道でお母さんの手をしつかり握つて立つてゐました。一しきり何か物凄《ものすご》い音がして、途方もなく大きな火の蛇《へび》が、ざざーつと這《は》ひ過ぎたのをはつきり覚えてゐるさうです。Hさんはお母さんと大学病院の繁《しげ》みのなかで夜を明かしまし
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