な善行の意味に、千恵はかすかな疑ひを持つやうになりました。娘の幸福に何かしら影のやうなものが射して来ました。そのごたごたと云ふのが、潤吉兄さまの出征後まもなくもちあがつた姉さまの出るの出ないのといふ騒ぎだつたことは、今さら申すまでもないでせう。
「いいぢやないの。かうして先方の言ひなりにこつちはこの通り丸裸かになつてさ、この上なんの怨《うら》まれることがあるものかね!」と、たしか騒ぎが一応落着した頃、千恵の顔に何か心配さうな色を見てとられたのでせうか、相変らずの陽気な調子で、さうお母さまが慰めて下すつたことがありましたね。そのとき千恵は成程《なるほど》と思ひ、何かひどく済まないやうなことをしたやうな気のしたことも、はつきり覚えてをります。
まつたく仰《おっ》しやる通りに違ひありませんでした。もちろん千恵はまだほんの小娘でしたから、ほんたうの事情は当時はもとより今でもよく分つてはゐませんし、またべつに分りたいとも思ひません。とにかく普通の離婚|沙汰《ざた》だけのものでなかつたことは娘ごころにも察しがつきました。また一概に先方のお母さまの腹黒さのせゐばかりでもなかつたやうですし、また家風に合ふとか合はないとかそんな言ひがかりの古めかしさ馬鹿《ばか》らしさはまあそれとして、姉さま自身にだつて今になつて冷静に考へてみれば、やつぱり人間としてそれ相応の欠点はちやんと具《そな》へておいでなのでした。もつともこれは、実の姉いもうとと信じこんで永年一つ部屋に暮らしてゐた千恵が、今の身にひき比べてはじめて申せることなのですが。
まあそんな罪のなすり合ひを今更はじめたところで仕方がありません。結局はだれにも悪意はなかつたのだらうと思ひます。ただ人間どうしの関係といふものは、こじれだしたが最後どうにも始末のわるいものだといふことの、ほんの一例みたいなものだつたのかも知れません。第一かんじんの潤吉兄さまを差しおいて、出すの出るのといがみ合ふなどといふことは、「家」といふものが曲りなりにも解消した今日の眼からは勿論《もちろん》のこと、当時の常識から考へても随分と妙なものに違ひありませんでした。とどのつまりが別居といふことになつて、そこでお母さま一流の気前のよさが始まりました。一々おぼえてもゐませんが、別荘や家作《かさく》が片つぱしからS家の名義に書き換へられたやうでした。そのほか土蔵のなかの骨董《こっとう》や什器《じゅうき》の類《たぐ》ひから宝石類に至るまで、殆《ほとん》ど洗ひざらひ姉さまのところへ運び出されたやうな感じでした。あんまりぽんぽん整理されて行くので、千恵も娘ごころに寧《むし》ろ痛快なほどで、ある日お寝間の化粧|箪笥《だんす》のなかに最後にのこつた宝石|函《ばこ》を選りわけながら、
「まあこれとこれは千恵ちやんのお嫁入り道具にとつて置きませうかね。」
などとお母さまが仰《おっ》しやると、なんだか後ろめたい興ざめな気持がしたほどでした。
まあそんなことは一々みんな結構なのです。さうなるともう只《ただ》の気前のよさとか潔癖とかいふものではなくて、いはば女の意地の張りあひでした。千恵にもその気持は同感できましたし、またそのおかげでなんの後ろめたさも卑屈さも味ははずに、最近五六年の烈《はげ》しい時勢の波を、とにかくここまで乗り切つてくることができました。財産の焼けるのを空しく見まもつた人と、あらかじめそれを投げ捨てた人と、その差はほんの皮|一重《ひとえ》のやうに見えながら実に大きな余波のひらきのあることに、このごろ学友の誰かれを眺めながらつくづく思ひ当ります。お母さまの思ひきつたあの処理のため、千恵はほんとに打つてつけの時機に、依頼心といふものからも射倖心《しゃこうしん》といふものからも切り離されました。これはしみじみ有難いと思ひます。
おや、またお母さまの笑顔がちらつきます。こんどは何を笑つておいでなのですか? 「そんなこと、わざわざお礼には及びませんよ。母さんはただ自分のしたいことをしたまでの話ですよ」と仰しやるのですか? まさかさうではありますまい。「母さんのしたことがいいか悪いか、まあそんなことにはくよくよせずに、せつせと勉強しなさいよ。をかしな子だねえ」と仰しやるのですか? もちろんさうでもありますまい。どうぞ千恵の不遠慮な推量をおゆるし下さい。どうやら千恵の眼には、お母さまの苦しさうな笑顔がちらつくやうです。当りましたか、それとも……いいえ、これが当らないはずはありません。それでなくつてどうしてお母さまが、姉さまの行方をあんなに気になさるはずがありませう。どうして姉さまのことで、悪夢などまでごらんになるはずがありませう。それとも……
………………………………………
いやいや、やつぱりこれは千恵の思ひすごしではないはずです。お母さまは姉さまを愛しておいでなのです。実の娘どうやうに、いえ実の娘以上にさへ愛しておいでなのです。「当り前ぢやないの!」つて、お母さまは小声でそつと抗議なさるでせう。千恵もさう信じます。それでこそあなたは千恵のお母さまなのです。けれどお母さまは、あんまり多くをお与へになつたのです。そのため何か大切なものをお失ひになつたのです。その報いが来たのです。……
千恵はお母さまを責めようなどとは考へてをりません。人間が人間を責めることができるものかどうか、そんなことすら考へてはをりません。罪は多分どこにも、誰にもありはしないのです。ただ人の子を躓《つま》づかせるものがあるだけなのです。
……ここまで書いて来て、千恵はどうやらやつと覚悟がきまりました。ではお母さま、以下が千恵の御報告です。この報告を書くことを、おそらく千恵は後悔しないでせう。これをお読みになつて、お母さまもどうぞ後悔なさいませんやうに! 千恵はそれを祈りもし、またほとんど信じさへしてをります。
………………………………………
千恵が姉さまの姿をはじめて見たのは、前にも書いたやうに今日から一月あまり前、あの聖アグネス病院の庭のなかでした。聖アグネス病院といふのは、ご存じないかも知れませんが、築地《つきじ》の河岸《かし》ちかく三方を掘割にかこまれてゐる一劃《いっかく》に、ひつそり立つてゐるあまり大きくない病院です。小さいながらも白堊《はくあ》の三階建なのですが、遠見にはかなり深い松原にさへぎられて、屋根のてつぺんにある古びた金色の十字架さへ、よつぽど注意して見ないことには分らないほどです。じつは千恵も学校の実習であそこへ配属されるまでは、かすかに名を聞いた覚えがあるだけで、どこにある病院なのかさつぱり見当もつかないほどでした。
実習といつても、勿論《もちろん》まだ自分で診察したり施術をしたりするのではなく、まあ看護婦の見習ひみたいな仕事が主でしたが、その三ヶ月の実習期間もそろそろ尽きようとする頃になつて、千恵は姉さまにめぐり会つたのです。つまり姉さまは、ついその二三日前に入院していらしたわけなのです。まつたくの偶然でした。今だからこそ白状しますが、あの湯島の別宅で戦災にあつた後の姉さまやS家の人たちの消息を、なんとかして探りだすやうにといふお母さまの強い御希望を伺ひながら、千恵はほとんど何もしなかつたのです。もとより一応は区役所へ行つて聞いてはみました。都庁の何とかいふ係りへも紹介状をもらつて行つてみました。けれど両方とも結局むだ足でした。なるほど近頃のお役所の人たちは、言葉づかひこそ少しは柔らかになつたやうですが、そのため却《かえ》つて中身の空つぽさや不親切さが露《あら》はになつて、見てゐる方ではらはらさせられるやうな気味があるやうです。民主化なんて大騒ぎをしてゐますが、つまるところは日本人にもう一つ別の狡《ず》るさを身につけさせるだけのことにならないものでもありません。お母さまのおいでの田舎《いなか》の方には、そんな現象は見えないでせうか?
それはとにかく、書類も焼け、なんの届けも出てゐないと言はれては、所詮《しょせん》のれんに腕押しです。一番ありさうなことは、姉さまも潤太郎さんも一緒に焼け死んでしまつたといふ想像でした。あの湯島のへんは火の廻りが早かつたせゐで、一家焼死の例が大そう多いとのことですから。……千恵はほとんどさう信じました。むしろ、さう信じたいと強く望んだ――と言つた方が当つてゐるかもしれません。これもやはり一種の狡るさなのかも知れません。もしさうでしたら、どうぞこの千恵をお気のすむまでお責めください。
幸ひ千恵は、頭もさう悪くないさうで、そのうへ医学にはぜひとも必要な或る沈着さが女には珍らしくあるとのことで、G先生には割合ひ信用のある方らしいのです。それで今度の学年のはじめから、夕方から夜にかけてG先生の自宅の方へ代用看護婦のやうな資格で住みこませていただくことができるやうになり、おかげでまたこの冬も、同級の誰かれがそろそろ気に病んでゐるやうなアルバイト苦労から一応たすかつてゐるのです。同級のかたがたの中には、洋裁店の外交や政党の封筒書きあたりならまだしものこと、キャバレーのダンサーだの絵かきのモデルだのをまで志願してゐる人があるのです。それどころか現に三人ばかり、平生《へいぜい》から半ば公然とお妾《めかけ》稼業をして学資にあててゐる人たちもあるくらゐです。でもみんな仲よく助け合つて毎日やつてをります。いづれ行き着く先はいろいろと違ひが出てくるのでせうが、まだ今のところはさつぱり分りません。ただその日その日があるだけです。
そんな生活をしてゐる千恵のことですから、当てどもなく姉さまの行方をさがすやうな時間のゆとりもなく、その伝手《つて》もないことは分つていただけるでせう。もし偶然の手助けがなかつたら、姉さまにめぐりあふ見込みはまづ全くなかつたのでした。
ですから一たん病院の庭で姉さまの姿を見てからといふもの、そして危く言葉をかけそこねて以来といふもの、千恵にはこのめぐりあひが只《ただ》の偶然ではなくて、何かもつと深い或る予定のあらはれとしか思へなくなりました。さう思ふのもやはり、はかない人間の気休めの一種なのかも知れませんが、とにかく千恵は、このめぐりあひの意味なり正体なりを、じつと見つめてやらうと心に誓ひました。さうなるともう、(申し訳のないことですが――)姉さま自身のその後の運命や、またそれに就いてのお母さまの心づかひなどは、第二第三の問題にすぎないのでした。千恵はつまり、こつちは一さい姿をあらはさずに、こつそり姉さまの跡をつけてやらうと決心したのです。
もちろん第一着手は、姉さまの病室や病名を調べることでした。これは診療カードを繰《く》れば造作もなく分りました。病名は抑鬱《よくうつ》症でした。軽度だが慢性に近いとも書いてありました。病室は三階の三一八号で、これはちやうどその頃わたしが同級のK子さんと一緒に看護婦見習をつとめてゐた三〇一号から三〇八号室までの一郭とは反対側の、東側病棟のほぼ中央にある部屋でした。受持の看護婦が、Fさんといふ殆《ほとん》ど婦長次席とも云つてもいいくらゐの格の人だといふことも、すぐに分りました。この病院では外部からの附添看護婦といふものを一さい受けつけず、どんな重症患者、どんな長期入院患者の場合でも、かならず病院直属の看護婦が受けもつことになつてゐるのです。
ところで、その三階の東側病棟といふのは、聖アグネス病院のなかでは一種特別の扱ひを受けてゐる、ちよつと神秘めいた一郭なのでした。看護婦仲間の通りことばでは、「神聖区域」と呼ばれてゐましたが、たしかにそこは、わたしたち実習生がやがてもう三ヶ月近くにもならうといふ実習期間を通じて、たえて足ぶみを許された例《ため》しのなかつた区域なのでした。うはさによれば、それは或る特別扱ひの患者だけを収容する大型の病室から成つてゐて、まあ一種の禁断の場所のやうなものだといふことでした。特別扱ひといつても、何もそれが財力だの門閥《もんばつ》だのといふ俗世の特権ばかりを目やすにしたものでないことは、もともとこの病院の帯びてゐ
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