恵の耳には、堂内がごうごうと鳴つてゐるやうな凄《すさ》まじい音が、はつきり聞えました。それはまるで火焔《かえん》が堂内いつぱいに渦まいてゐるやうな音でした。くやしいことですけれど、あとはもう夢中でした。いつのまにO町の外科病院へたどり着いたものやら、さつぱり覚えがありません。気がついてみると、何か吐き気のやうなものがしてゐました。たうとう我慢がならず、お手洗ひへ立ちましたが、結局なんにも吐くものはありませんでした。ただの目まひだけだつたらしいのです。……
………………………………………
母上さま、――
千恵にはもうこれ以上なんの御報告すべきこともございません。結局なんにも分らないぢやないかと、母さまはひよつとするとお咎《とが》めになるかも知れません。それも致し方のないことです。現にこの千恵自身にも、さつぱり訳が分らないのですから。
とにかくこれが、母さまのお求めになつた姉さまの消息について、千恵がさぐり出すことのできた全部です。もうこれで姉さまのことは御免をかうむりたいと存じます。姉さまが現にああして生きておいでになる以上、その消息をもとめる役目はこれで役ずみになる筈《はず》はありません。千恵もそれぐらゐのことはよく分つてゐます。けれどこの上の探索は千恵の力がゆるしません。そして恐らくこの手紙をお読みになつた母さまは、もう二度とふたたびこんな役目を千恵にお押しつけになる筈はあるまいと、千恵は固く信じてをります。あれは死んだ姉さまなのです。千恵は今こそはつきりさう申します。姉さまはあの業火《ごうか》のなかで亡くなつたのです。どうぞ母さまもさう信じてくださいますやうに!
こんなに度たび姉さまと顔を合せながら、つひに一度も「姉さま!」と呼びかけずにしまつた千恵の薄情さを、母さまはお咎《とが》めになるのですか? 「だから千恵さんは情《じょう》が剛《こわ》いといふのですよ!」と、そんな母さまのお声が耳の底できこえるやうです。そのお咎めなら千恵はいくらでも有難く頂戴《ちょうだい》するつもりです。どうせ千恵は情のこはい、現実のそろばんを弾《はじ》いてばかりゐるやうな女です。そのことは幼い頃から母さまにさんざ言はれましたし、この先もきつと一生涯さうに違ひありません。さうですとも、千恵は生きなければならないのです。生きてゆく以上、死人の世界になんぞかかづらはつてはゐられ
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