ひだしました。
「さつきのあの青んぶくれが起きあがつたのなんか、ほんの偶然なのよ。ちやうど寝ぼける時刻にぶつかつたからなんだわ。これまでにも三度か四度そんな偶然の一致があつたけど、あの奥さんの眼、だいいちあの児をなんか見てゐやしなかつたわよ。もつと宙ぶらりんの、当てどもないやうな、妙に切ないみたいな見つめやうなんだわ。いはばまあ、この部屋や隣りの部屋にゐるのだけではない、子供ぜんたいをうつとり見つめてゐる……とでもいつたふうのね。一度なんか窓のすぐ内側にわたしが立つてゐて、近々とあの奥さんの眼を覗《のぞ》いたことがあつたけれど、そんな近くにわたしがゐることなんか、てんで目もくれやしないのよ。……だつてさうぢやない?」と、そこでHさんは言葉を切つて、効果をためすやうに千恵の顔をちらりと見ると、また先をつづけました。――
「ね、さうぢやない? あのN堂へだつて、まだ時たま思ひだしたやうに姿を現はすんだものねえ!」
千恵は思はずどきりとしました。顔色も変つたに違ひありません。思はず眼を伏せましたが、やがておづおづと眼をあげたとき、Hさんはもうすつかり気が変つたみたいな顔をして、何やら小声で流行《はや》り唄《うた》か何かをうたつてゐました。そして交替時間が来て、わたしたちは別々の部屋へ引きとりました。……
………………………………………
姉さまがいまだにN会堂へ姿を見せると聞かされて、なぜそんなにびつくりしたものやら、千恵はわれながらわけが分りません。ただ何がなしに寒気が背すぢを走つて、そのためぞおーっと総毛《そうけ》だつたのです。そこには何かしら異常なものがありました。千恵はよつぽどどうかしてゐたのに違ひありません。
その夜はなかなか寝つけませんでした。妙に風の音ばかり耳につきました。それでもやがて眠つてしまつたらしく、なんだか混み入つた夢を見ました。はじめは何でもその病院の庭を、ふらふら歩いてゆくやうでした。千恵ひとりで、もの凄《すご》いほど明るい月夜でした。芝生がいちめんまるで砂浜みたいに白く浮いて、遠くの松原が黒ぐろと影を描いてゐました。その黒い樹《こ》だちのなかに、ところどころ白い斑《まだ》らが落ちて、その一つ一つがよく見ると、まるで姉さまの姿のやうに思はれました。どれがほんとの姉さまかしら?……ふとそんな疑念がきざしたとたんに、夢がぐるぐると目まぐる
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