や驚くまいことか、――鉄道がうちの地面を通ってね……金がころげこみましたよ。まあ見ててご覧なさい、また何かありますよ、今日でないまでも明日《あす》はね。ダーシェンカが二十万あてますよ……あれは富クジを一枚もってますでな。
ラネーフスカヤ コーヒーも飲んだから、これでもう休めるわ。
フィールス (ブラシでガーエフの服を払いながら、訓戒口調で)またズボンをお間違えになった。ほんとに困ったお人だ!
ワーリャ (小声で)アーニャは寝ているわ。(そっと窓をあける)もう日が出た、寒くないわ。ご覧なさい、お母さん、なんて見事な桜の木でしょう! すばらしいわ、この空気! ムク鳥が啼《な》いている!
ガーエフ (べつの窓をあける)庭いちめん真っ白だ。おまえ忘れやしないだろう、え、リューバ? この長い並木は、ずっとまっすぐ、まるで革帯をぴんと張ったように伸びて、月夜には白々と光るのだ。ね、覚えてるだろう? 忘れはしまいね?
ラネーフスカヤ (窓から庭を眺《なが》めて)ああ、わたしの子供のころ、清らかな時代! わたし、この子供部屋に寝て、ここから庭を眺めたものよ。あの頃は幸福が、毎朝わたしと一しょに目をさましたっけ。庭もこの通りだった、そっくりそのまま。(嬉しさのあまり笑う)真っ白、一めんに真っ白ね! ああ、わたしの庭! 暗い、うっとうしい秋や、寒い冬を越して、またお前は若々しく、幸福で一ぱいだわ。天使たちが、お前を見すてなかったのね。……ああ、わたしの胸や肩から、この重石《おもし》がとりのけられたら! わたしの過去を、きれいに忘れることができたら!
ガーエフ そう、だがこの庭も、借金のカタに売られてしまう。妙な話だが、仕方がない……
ラネーフスカヤ あら、ご覧なさい、亡《な》くなったお母さまが、庭を歩いてらっしゃるわ……白い服を召して! (嬉しさのあまり笑う)たしかにそうだわ。
ガーエフ どれ、どこに?
ワーリャ しっかりなすって、お母さん。
ラネーフスカヤ 誰もいない、気のせいだったわ。右手の、あずまやへ行く曲り角に、白い若木の垂れているのが、女の影に似てたんだわ……

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トロフィーモフ登場。着ふるした学生服をきて、眼鏡をかけている。
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ラネーフスカヤ ほんとにすばらしい庭! 花が真っ白にかさなって、あの青い空……
トロフィーモフ 奥さん! (夫人は彼をふりかえる)僕《ぼく》はちょっとご挨拶だけして、すぐ引きさがります。(熱烈に手にキスする)朝まで待つように言われたんですが、とても我慢がならないもんで……

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ラネーフスカヤ夫人、けげんそうに彼を見る。
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ワーリャ (涙ごえで)ペーチャ・トロフィーモフよ……
トロフィーモフ ペーチャ・トロフィーモフ、お宅のグリーシャの家庭教師でした。……僕そんなに変ったでしょうか?

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夫人は彼を抱いて、静かに泣く。
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ガーエフ (当惑して)もういい、もういいよ、リューバ。
ワーリャ (泣く)だから言ったじゃないの、ペーチャ、あしたまでお待ちなさいって。
ラネーフスカヤ わたしのグリーシャ……ああ坊や……グリーシャ……可愛《かわい》い子……
ワーリャ 仕方がないわ、お母さん。神さまの思召《おぼしめ》しですもの。
トロフィーモフ (やさしく、涙ごえで)いいですよ、もういいですよ……
ラネーフスカヤ (静かに泣く)あの子は死んだ、溺《おぼ》れてしまった。……なぜなの? なぜでしょう、あなた? (声をひそめて)あすこでアーニャが寝ているのに、わたし大きな声して……うるさいわね。……まあ、どうなすったの、ペーチャ? どうしてそんなに風采《ふうさい》が落ちたの? なんだってそう老《ふ》けなすったの?
トロフィーモフ 汽車のなかでも、どっかの百姓|婆《ばあ》さんに、“ねえ、禿《は》げの旦那《だんな》”って言われました。
ラネーフスカヤ あなたはあのころ、まるで子供で、可愛い学生だったわ。それが今じゃ、髪の毛も濃くはないし、眼鏡まで。ほんとに、今でも大学生なの? (ドアのほうへ行く)
トロフィーモフ きっと僕は、万年大学生でしょうよ。
ラネーフスカヤ (兄に、それからワーリャにキスする)さあ、行っておやすみなさい。……あなたも老けたわねえ、レオニード。
ピーシチク (夫人のあとにつづく)では、これでおねんねか。……ええ、この足痛風めが。今日は泊めていただきますよ。……とにかくわしは、ねえ奥さん、あすの朝にゃ……二百四十ルーブリというものが……
ガー
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