えて、こっちも釣り込まれて顔をほころばせるのだったし、婦人のお客になるとついもう我慢がならず、話の最中にいきなり彼女の手をとって、うれしさに前後も忘れてこう口走らずにはいられなかった。――
「可愛い女《ひと》ねえ!」
彼女が生まれ落ちるとからずっと住み通してきたこの家は、お父さんの遺言状には彼女の名ざしになっているものだが、町はずれのジプシー村にあって、『ティヴォリ』遊園のじき近くだった。毎ばん宵《よい》の口から夜ふけにかけて、彼女の耳には園内で奏でられる音楽や、花火のポンポン打ち上げられる音がきこえ、それが彼女には、まるでクーキンがわが身の運命と組み打ちしながら、そのめざす大事な敵――かの冷淡なる見物を攻め落とそうと、突撃の真っ最中のように思われるのだった。すると彼女の心はあまくしめつけられ、まるっきり睡《ねむ》くなくなって、やがて明方ちかく彼が帰ってくると、彼女は自分の寝間の窓を内側からそっと叩いて、カーテン越しに顔と片っ方の肩さきだけ覗《のぞ》かせながら、優しくにっこり微笑《ほほえ》むのだった。……
彼の方から申し込みをして、二人は結婚した。そして彼は、彼女の頸筋や、ぽってりと健康にはちきれんばかりの肩先につくづく気がついたとき、思わず両手を打ち合わせてこう口走った。――
「可愛い女だなあ!」
彼は幸福な気持だったが、あいにく婚礼当日の昼間が雨で、それから夜ふけになってまた降ったので、彼の顔からは終始絶望の色が消えなかった。
結婚ののち二人は楽しく暮していた。彼女は良人《おっと》の帳場に坐って、園内の取締りに目をくばったり、出費を帳面にひかえたり、給料を渡したりするのだったが、彼女の薔薇色の頬や、愛くるしい、あどけない、さながら後光のような微笑みは、いましがた帳場の窓口に見えたかと思うと、次の瞬間には舞台裏に現われたり、かと思うとまた小屋の食堂に現われたりで、しょっちゅうそこらにちらちらしていた。また彼女は、今じゃもう知合いの誰彼に向かって、この世で一ばん素敵なもの、一ばん大切で必要なものは何かというと、それは他ならぬこの芝居で、本当の慰めを得たり、教養あり人情ある人になる道は、芝居を措《お》いてはほかに求められない、などと言い言いするのだった。
「けどねえ、見物衆にそれが分かっているでしょうか?」と彼女は言うのだった。「あの連中の求めるのは小屋掛けの見世物なんですわ! 昨日わたくしどもで『裏返しのファウスト』を出しましたら、どのボックスもほとんどがらあきでしたが、それがもしわたしたちヴァーニチカと二人で何か俗悪なものを出したとしたら、さだめし小屋は大入り満員だったに相違ないんですわ。明日はヴァーニチカと二人で『地獄のオルフェウス』を出しますの。いらしてちょうだいね」
というふうに、芝居や役者についてクーキンの吐いた意見を、彼女もそのまま受け売りするのだった。やはり良人と同様彼女も見物が芸術に対して冷淡だ、無学だといって軽蔑していたし、舞台稽古にくちばしを出す、役者のせりふまわしを直してやる、楽師れんの行状を取り締まるといった調子で、土地の新聞にうちの芝居の悪口が出たりしようものなら、彼女は涙をぽろぽろこぼして、その挙句《あげく》に新聞社へ掛け合いに行くのだった。
役者連中は彼女によくなついて、『ヴァーニチカと二人』だの『可愛い女《ひと》』だのと尊称を奉っていた。彼女の方でも彼らに目をかけてやって、少しずつならお金も貸し出したりしていたが、ひょっとして一杯ひっかけられるようなことがあっても、彼女は人知れずこっそり泣くだけで、良人に苦情をもちかけたりなんぞしなかった。
その冬も二人は楽しく暮した。町の劇場をその冬いっぱい借り切って、短い期限をきってウクライナ人の劇団や、奇術師や、土地の素人《しろうと》芝居に又貸しした。オーレンカはますます肥《ふと》って、頭から足の先まで満悦の色に照り輝いていたが、一方クーキンはますます瘠《やせ》せ細りますます黄色くなって、その冬はずっと事業がうまく行っていたくせに、えらい欠損だとこぼしてばかりいた。彼は夜中になるときまって咳《せき》が出たので、彼女は彼に木苺《きいちご》の汁や菩提樹《ぼだいじゅ》の花の絞り汁を飲ませたり、オーデコロンをすり込んでやったり、自分のふかふかしたショールでくるんでやったりした。
「あなたはまったく何て立派な人でしょうねえ!」と彼女は彼の髪をなでつけてやりながら、嘘いつわりない本心からそう言うのだった。「あなたはまったく何ていい人でしょうねえ!」
*大斎期に彼は一座を募集にモスクヴァへ旅立ったが、彼女は良人がいないと眠れないので、ずっと窓ぎわに坐りとおして星ばかり眺めていた。そんな時には彼女は自分の身を、鶏小屋に雄鶏《おんどり》がいないとやはり夜っぴ
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