クシニューシカ、妙なことがあればあるもんだよ」と、彼女は手ずから小皿を茶ぶきんで拭き清めながら、おさんどんにそれとなく鎌をかけてみた。
「なんですかね、おかみさん?」
「それがね、どうやら夢らしくもないんだけどね、とにかくこうありありと、どこかの猫が一匹、あたしの寝床へちゃんともぐりこんで来たのさ。」
「あら嫌ですよ、おかみさん、まさか?」
「ほんとにさ、猫がもぐりこんで来たんだよ。」
 そう言ってカテリーナ・リヴォーヴナは、その猫のもぐり込んでいた次第を話して聞かせた。
「でもおかみさん、なんだってそんな猫なんぞを、可愛がってやんなすったんですね?」
「うん、つまり、そのことさ! どうして撫でてやる気になったものか、われながら合点がいかないんだよ。」
「妙ですねえ、ほんとに!」と、おさんどんは感嘆した。
「当のあたしだって、考えれば考えるほど不思議でならないんだよ。」
「てっきりそりゃあ、誰かがこう、そのうちひょっくりやって来るというお告げか、さもなけりゃ、何か思いがけないことでもある、という前兆かもしれませんねえ。」
「って言うと、つまり何だろうね?」
「さあ、つまり[#「つまり」に傍点]これこれということになると、そりゃおかみさん、誰にだってはっきりとは申し上げられますまいけれどね、それはまあそうとして、きっと何かありますよ。」
「それまではずっと、お月さまの夢を見ていたんだがね、それから猫が出て来たのさ」と、カテリーナ・リヴォーヴナは先をつづけた。
「お月さんなら――赤ちゃんでございますよ。」
 カテリーナ・リヴォーヴナは頬を紅らめた。
「セルゲイもここへ呼んで、相伴をさしておやんなさいますかね?」と、そろそろ心得顔でせせり出しそうな気合いを十分に見せながら、アクシーニヤはお内儀さんの気を引いてみた。
「ええ、いいわ」と、カテリーナ・リヴォーヴナは応じた、――「なるほど、そうだったわね。ちょっと迎えに行ってきておくれ、お茶を御馳走してあげるからって。」
「それそれ、わたしもそう思っておりましたんですよ、ここへ呼んでやろうとね」とアクシーニヤは釘をさして、よちよち家鴨《あひる》のように庭木戸の方へ歩み去った。
 カテリーナ・リヴォーヴナは、セルゲイにも猫の話をして聞かせた。
「なあに、気の迷いさ」と、セルゲイは片づけた。
「でもさ、気の迷いなら迷いでいいけど、なぜそれが、今までついぞなかったんだろうね、ねえ、セリョージャ?」
「今までなかったことなんぞ、ざらにあらあな! 現に見ねえ、ついこのあいだまでは、おいらは只お前さんを遠目に拝むだけでさ、人しれず胸を焦がすのが落ちだったもんだが、今じゃどうだい! お前さんのむっちりと白いからだは、まるまるみんな俺らのもんじゃないか。」
 セルゲイは軽がるとカテリーナ・リヴォーヴナを抱きあげると、宙でぐるぐるぶん※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]しにして、冗談はんぶん彼女をふっくらした毛氈の上へ投げだした。
「ふうっ、目がまわるじゃないの」と、カテリーナ・リヴォーヴナは勢いこんで、――「ねえセリョージャ! こっちへおいでな。ずっとそばへ寄ってお坐りよ」と、長々と伸ばした身の曲線を惜しげもなく男の眼にさらしながら、甘えた口調で呼びかけた。
 若者は身をかがめて、いちめんに白い花で蔽われた林檎の下蔭にあゆみ入ると、カテリーナ・リヴォーヴナの足のあいだへにじり込んで、毛氈にどっかと腰をおろした。
「あたしに焦がれていたって、それ本当、セリョージャ?」
「なんで焦がれずにいらりょうか、ってことさ。」
「一体どんなふうに焦がれてたのさ? それを話してお聞かせな。」
「話してきかせろったって、じゃどう言やいいんだい? 焦がれるの何のということが、口で講釈できるものだとでもいうのかい? 恋しかったんだよ、おいら。」
「でもさ、セリョージャ、それほどお前さんが思いつめていてくれたものを、あたしがどうして感じずにいたんだろうねえ。だってほら、世間でよく以心伝心なんて言うじゃないか。」
 セルゲイは無言だった。
「一たいお前さん、あたしがそんなに恋しかったのなら、なぜあんなに面白そうに唄ばかり歌ってたのさ? だってあたし、納屋の差掛のところで歌っている声がよく聞えて来たものだけれど、あれはきっとお前さんの声だったに違いないもの」と、相かわらず甘えながら、カテリーナ・リヴォーヴナは問いつづけた。
「唄ぐらい歌ったって構わねえじゃないか? 蚊とかブヨとかいう奴は、生まれるとから死ぬまで歌っているけれど、何も嬉しくって歌うわけじゃあるまいぜ」と、セルゲイは素気なく答えた。
 話がとだえた。カテリーナ・リヴォーヴナは、はからずもセルゲイの胸中を聞き知って、天に昇らんばかりの法悦にひたるのだった。
 彼女
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