#ローマ数字9、1−13−29]

 セルゲイは喉に真紅なハンカチを巻きつけて、どうしたものだか喉が腫れふさがって困ったと言いふらしていた。ところが、ジノーヴィー・ボリースィチがセルゲイの喉もとにのこした歯形の、まだ直りきらないうちに、カテリーナ・リヴォーヴナの良人の行方不明が、人の口の端にのぼりはじめた。当のセルゲイが誰よりも一ばん多く、旦那のうわさをしだしたのである。宵の一刻を、若い衆にまじって木戸のそばのベンチに腰かけなどしている時、『それにしても、なあみんな、妙な話じゃねえかい、うちの旦那が未だに帰ってござっしゃらねえなんてさ』――といった調子で、口火を切るのである。
 若い衆もやはり、不思議だなあと首をかしげる。
 そうこうするうちに製粉所から報らせが来て、旦那は何頭だてかの馬車をやとって、もうとうの昔についたことが分る。その車の馭者にきいてみると、ジノーヴィー・ボリースィチははじめから加減がよくない様子だったが、そのうち変てこな場所で車を乗りすてた。というのはつまり、町までまだ一里ちかくもあろうという時分、修道院のそばでいきなり車をおりると、皮袋をさげて、そのまま行ってしまった――というのである。そんな話を耳にするにつけ、一同はますます怪訝《けげん》に思うのだった。
 ジノーヴィー・ボリースィチが行きがた知れずになんなすった――結局はまあそこに落ちついてしまう。
 そこで捜索がはじまったが、何ひとつ見つからなかった。商人は水へでももぐったみたいに掻き消えてしまったのである。逮捕された馭者の陳述で分ったことは、例の修道院のそばを流れている川っぷちで商人が車をおりて、そのまま行ってしまった――ということだけだった。事件は結局うやむやになって、そのまにカテリーナ・リヴォーヴナは、後家の身の誰に遠慮えしゃくもない気楽さで、セルゲイと思うぞんぶん乳くり合ったのである。ジノーヴィー・ボリースィチの姿を、どこそこで見かけた、いやどこそこで見かけたなどと、当てずっぽうを言いだす者も出てきたが、それでもやっぱり戻ってはこず、第一どうしたって戻ってこられるはずのないことを、誰よりもよく知りぬいているのは、当のカテリーナ・リヴォーヴナに違いなかった。
 こうして一ト月たち、二タ月たち、三月目がすぎると、カテリーナ・リヴォーヴナは生理に異状をおぼえた。
「どうやら私たちの元手が
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