た。と、たちまち犬が飛びかかろうとしたが、すぐまたおとなしくなったのは、てっきり尻尾をふって甘えかかっているのに相違ない。それからまた一分ほどすると、階下《した》で掛金《かけがね》のはね返る音がして、戸がギイとあいた。――『この音はみんな、わたしの空耳かしら。さもなけりゃあれは、うちのジノーヴィー・ボリースィチが帰って来たのだ。あの人の持っている合鍵で戸があいたところを見ると』――そうカテリーナ・リヴォーヴナは考えて、いそいでセルゲイの小脇をつついた。
「ほら、お聞きよ、セリョージャ」と彼女は言うと、自分も片肘ついて身をもたげ、聴き耳をたてた。
階段を忍びやかに、一あし一あし用心ぶかく踏みしめながら、ほんとに誰かが、寝室の錠のおりたドアへ近づいて来るのだった。
カテリーナ・リヴォーヴナは、シュミーズ一枚でぱっと寝床からとび出すと、小窓をあけ放った。間髪をいれずセルゲイは、はだしで差掛の屋根へとび下りざま、両の足をしっかりと柱にからみつけた。その柱づたいに、おかみさんの寝間から抜けだすのは、何もこれが初めてではなかったのだ。
「いいえ、それには及ばないわ、それには! そのへんでちょいと横になっておいでな……遠くへいかずにね」と、カテリーナ・リヴォーヴナはささやくと、男の靴と服を窓のそとへ抛りだしておいて、自分はまた毛布へもぐりこみ、じいっと待ち受けた。
セルゲイは、カテリーナ・リヴォーヴナの言うとおりにした。彼は柱づたいに滑りおりずに、差掛の上に積んであった菩提樹の皮のかげに身をひそめた。
そのまにもカテリーナ・リヴォーヴナの耳には、良人がいよいよ戸の外までやって来て、息をころして聴き耳をたてている気配が、手にとるように伝わってきた。そればかりか、嫉妬に燃えるその心臓が早鐘をつく音までが、聞きとれるほどだった。しかし、カテリーナ・リヴォーヴナの胸にこみ上げて来たのは、同情の念ではなくて、毒をふくんだ笑いだった。
『おとといお出《い》で』と彼女は、心のなかでつぶやいた。その顔には微笑がただよい、息づかいは、罪のない幼な児のように安らかだった。
そうした状態が、ものの十分ほどつづいた。やがての果てにジノーヴィー・ボリースィチは、ドアの外にたたずんで妻の寝息をうかがっているのが、もうこれ以上やりきれなくなった。彼はノックした。
「だあれ?」と、早からず遅からず間あ
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