きから既に、純粋に虚無の人ではなかったであろうか。主義の上のことを言うのではない。彼の内なる否応《いやおう》ない生命の営みのことを指すのである。
 このような人間にとって、感受とは、表現とは、所詮《しょせん》音楽の形式を離れることが出来ないのではあるまいか。人の世のくさぐさは音楽の波として享受され、その享受は再び音楽の波として放出されるのではあるまいか。事実、チェーホフにあってはそうであった。このような契機から生まれたのが、彼独得の雰囲気の芸術、気分の芸術だったのである。

 少数の例外を除いて、彼の円熟期の作品はことごとく、右のような約束を果しているものと見なければならない。それらを完全に理解するためには別の眼が要るのである。つまり、すぐれた演出による『桜の園』なり『三人姉妹』なりの舞台面によって養われた眼を、そのまま何の修正も加えずに、彼の短篇小説の上にも転じることが、よし心構えだけにせよ要求されるのである。読者が演出者たることを強いられる極端な場合の一例である。片言や点景が、筋の運びのためにあるのではなく、もっと奥深い調和のためにあり、遥か野末から弦の断《き》れたような物音が何ごとかを暗示し、そのまま何の解決もなしに永遠の流れに融《と》けて入る――といったことを、彼は何も戯曲の中だけでやったのではないのである。
 彼の行文は明晰《めいせき》で平明だ。言語学者の眼から見ると、殆《ほと》んどスラヴ語のニュアンスを欠いているとさえ言われている。しかしその底には怖《おそ》るべき漠然さがある。彼は非常に多くの隠微なものを読者の演出にまで残している。恐らく彼は、音楽に於ける漠然さの価値を信じたポオと同様に、散文芸術に於ける漠然さを尊んだのでもあろうか。
 そういう彼の短篇技法を、要約して述べることは恐らく大変に困難なことに違いない。彼は実に豊富なあれこれの手法を駆使して、巧みにこの要求をみたしているからである。既に『わびしい話』にしてからが、物語的要素のムーヴマンとしては寧ろ冗漫さを歎《なげ》かせるに過ぎず、一種の情感的ムーヴマンとして受用する場合にはじめて美しい調和を露わにすることは、多分周知のことであろうが、こうしたいわば音楽的構成がとる形の頗る変幻自在なことも亦《また》いなみがたい事実に相違ない。
 試みに、彼の円熟期の諸作のなかでも最も完成した形式をもつ『中二階のある家』を取り上げてみよう。これは『画家の話』という傍題のある、そしてチェーホフの抒情はついにここに凝ったのではないかと疑われるほどに甘美な作品である。なかでも夏の宵《よい》の別れの場面などは、遠い昔に読んだ荷風《かふう》の『六月の夜の夢』を思わず想い起させるほどの情趣に富んだものだが、まあそれはそうとして、僕の解するかぎりこの作品は次のようなムーヴマンを追っているのである。
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 第一楽章。平明な緩徐調。――画家が道に迷ってヴォルチャーニノフの家に近づく。その姉娘と知り合う。招待、訪問。ヴォルチャーニノフ家の教養ある空気。
 第二楽章。軽快調から漸次《ぜんじ》急調子に。――画家が自分の遊民的生活に感じる不満。しかも社会事業家型の姉娘よりも、純な妹娘の方に牽《ひ》かれる心の矛盾。妹娘との親しみの急速な深まり。会話。幸福感。ふと思い出したように生活への衝動が来る。それと、友人の抱く悲観説との対照。
 第三楽章。躁急調《そうきゅうちょう》。――画家のユートピア的な夢想と姉娘のトルストイ的な実行主義との正面衝突。この章は激論に終始する。
 第四楽章。軽快調から漸次緩徐調に。――その夜更け。妹娘が野道を送って来る。晩夏の星月夜。接吻。……その翌日。既に妹娘はいない。画家が曾ての道を逆にその家から遠ざかって行く。
 エピローグ。
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 音楽的素養のある人ならもっと周密な分析をすることが出来るであろうが、とにかく右に現われただけでも、ソナータの構成を思い起すのは何も僕一人だけではあるまいと思う。もちろん各楽章の排列《はいれつ》は転倒し、また変形しているとはいえ、二つの主題が交《かわ》る交《がわ》るに起伏出没していることまで、何とソナータの形式に似通っていることであろう。二つの主題とは、言うまでもなく、画家が妹娘によせる淡い恋心、および画家の内心に巣くう世紀末インテリ的な焦燥である。
 もう一つ序《つい》でに、『犬を連れた奥さん』を分析してみても、全く同じ結果に到達することを発見するであろう。すなわち、
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 第一楽章。平明な緩徐調。――南ロシヤの別荘地での二人の出会《であい》。男の恋愛遊戯的な気持。
 第二楽章。軽快調から漸次急調子に。――行きずりの恋の成立。重なる逢引《あいびき》。ふと断ち切られたような別離。秋の夜の停車場。
 第三楽章。躁急調。――別離後の男を苛《さいな》む空虚感。焦燥。男がとうとう女に逢いに行く。劇場でのメロドラマティックな出会。狂おしい接吻。
 第四楽章。軽快調から漸次緩徐調に。――永遠の愛、精神の愛による二人の結びつき。この深いよろこびの瞬間にふと訪れる老年の気配。永遠の時に流される「どうしたら?」という悲しい疑問。
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 ここでは、主題は二つに分裂したものとは見ずに、曾てミールスキイの指摘したように、主人公の遊戯的な恋愛観(直線的主題、すなわち直線として発展すべきものとしての期待を読者に抱かせつつ最初にあらわれた主題)が、漸次真剣な深い愛情に移り変ってゆく(すなわち曲線への偏向)と解するのが至当であろう。『イオーヌィチ』も全く同様の構成を有する一例である。

 チェーホフの短篇小説を読んでいると、特に後期の作品について、このような分析が多かれ少なかれ可能でもあり適切でもある場合に屡※[#二の字点、1−2−22]行きあたるのである。してみるとこの一種のソナータ的とも言うべき構成は、チェーホフの愛用した形式のうちの少《すくな》くとも一つをなすものと看做《みな》してよいであろうか。とはいえ、彼の素直な創造精神があらゆるマナリズム、あらゆる公式主義の敵であったことを思えば、右のような分析法を彼の作品表の全面に及ぼすことは、当然つつしまなければならないであろう。それのみならず、右のような分析の適用し得る範囲についてすら、チェーホフがあからさまな意識をもって例えばソナータ形式を採択したなどと想像することは、恐らく心ない穿鑿沙汰《せんさくざた》に過ぎないであろう。様式論の興味はそのようなところにあってはならない。私達にとって何よりも興味ぶかいのは、右のような分析が、この文章の冒頭に述べた「聖チェーホフの雰囲気」を時として押しひらいて、冥々《めいめい》のうちに作家チェーホフを支え導いていた端倪《たんげい》すべからざる芸術的|叡知《えいち》の存在を明かすとともに、この叡智の発動形式の一端に私達を触れさせて呉《く》れることである。もしもチェーホフの不滅が約束されているとすれば、それはこの叡智の力と形式のほかのどんな場所でもあり得ない。蓋《けだ》し一たん縹渺《ひょうびょう》たる音楽の世界へ放たれて揺蕩《ようとう》する彼のリアリズム精神は、再び地上に定着されるや、ほかならぬその形式のもとに安固たる不滅の像をむすんでいるからである。
[#地から1字上げ](一九三六年九月「新潮」、加筆して『八杉先生記念論文集「ロシヤの文化について」』)



底本:「カシタンカ・ねむい 他七篇」岩波文庫、岩波書店
   2008(平成20)年5月16日第1刷発行
底本の親本:「神西清全集 第五巻」文治堂書店
   1974(昭和49)年発行
初出:「新潮」
   1936(昭和11)年9月
入力:佐野良二
校正:noriko saito
2010年1月20日作成
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