の停車場。
 第三楽章。躁急調。――別離後の男を苛《さいな》む空虚感。焦燥。男がとうとう女に逢いに行く。劇場でのメロドラマティックな出会。狂おしい接吻。
 第四楽章。軽快調から漸次緩徐調に。――永遠の愛、精神の愛による二人の結びつき。この深いよろこびの瞬間にふと訪れる老年の気配。永遠の時に流される「どうしたら?」という悲しい疑問。
[#ここで字下げ終わり]
 ここでは、主題は二つに分裂したものとは見ずに、曾てミールスキイの指摘したように、主人公の遊戯的な恋愛観(直線的主題、すなわち直線として発展すべきものとしての期待を読者に抱かせつつ最初にあらわれた主題)が、漸次真剣な深い愛情に移り変ってゆく(すなわち曲線への偏向)と解するのが至当であろう。『イオーヌィチ』も全く同様の構成を有する一例である。

 チェーホフの短篇小説を読んでいると、特に後期の作品について、このような分析が多かれ少なかれ可能でもあり適切でもある場合に屡※[#二の字点、1−2−22]行きあたるのである。してみるとこの一種のソナータ的とも言うべき構成は、チェーホフの愛用した形式のうちの少《すくな》くとも一つをなすものと看做《みな》してよいであろうか。とはいえ、彼の素直な創造精神があらゆるマナリズム、あらゆる公式主義の敵であったことを思えば、右のような分析法を彼の作品表の全面に及ぼすことは、当然つつしまなければならないであろう。それのみならず、右のような分析の適用し得る範囲についてすら、チェーホフがあからさまな意識をもって例えばソナータ形式を採択したなどと想像することは、恐らく心ない穿鑿沙汰《せんさくざた》に過ぎないであろう。様式論の興味はそのようなところにあってはならない。私達にとって何よりも興味ぶかいのは、右のような分析が、この文章の冒頭に述べた「聖チェーホフの雰囲気」を時として押しひらいて、冥々《めいめい》のうちに作家チェーホフを支え導いていた端倪《たんげい》すべからざる芸術的|叡知《えいち》の存在を明かすとともに、この叡智の発動形式の一端に私達を触れさせて呉《く》れることである。もしもチェーホフの不滅が約束されているとすれば、それはこの叡智の力と形式のほかのどんな場所でもあり得ない。蓋《けだ》し一たん縹渺《ひょうびょう》たる音楽の世界へ放たれて揺蕩《ようとう》する彼のリアリズム精神は、再び地上に定
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