かもじの美術家
TUPEJNYJ HUDOZHNIK
――墓のうえの物語――
レスコーフ Nikolai Semyonovich Leskov
神西清訳
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)臙脂《べに》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|トロ・ボークー《たんとすぎます》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#ローマ数字1、1−13−21]
*:原注記号
(底本では、直前の文字の右横に、ルビのように付く)
(例)ボルゾイ犬の群をけしかけたことさえあった*。
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[#ここから3字下げ、ページの左右中央]
一八六一年二月十九日なる農奴解放
の佳き日の聖なる記念に
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
[#地から5字上げ]かれらの魂は至福のうちに休らう。
[#地から1字上げ]――埋葬の歌――
※[#ローマ数字1、1−13−21]
わが国で「美術家」といえば、まずきまって画家や彫刻家のことで、それもアカデミーからこの称号を認可された連中にかぎるというのが、通り相場になっている。ほかの手合いは、てんで美術家あつかいにされないのだ。サージコフやオフチンニコフのような名工でも、多くの人の目には単なる「銀細工師」にすぎない。ところが、よその国になると話がちがう。ハイネの囘想記のなかには、「美術家であり」「一家の見を具えて」いた仕立屋のことが出てくるし、ヴォルトの手がけた婦人服は、今日なお「美術品」として通っているのである。そのうちの一着の如きはつい最近も、「無辺無量の幻想が胴の一点に凝っている」と評してあった。
アメリカになると、美術の領域は更に一そう広く解されている。有名なアメリカの作家ブレット・ハートの物語るところによると、あちらでは「死人に化粧をする」「美術家」がいて、たいそうな人気だったそうである。その男は、亡者の顔に色々さまざまな「慰めある表情」をあたえて、その飛び去った魂の幸福な状態の多寡深浅を、あらわすことに妙を得ていたのだ。
この化粧法には幾つかの等級があったが、わたしは次の三つを覚えている。(一)安楽。(二)高められし観想。(三)神とじかに物語る至福。この美術家の名声は、その絶妙な伎倆にふさったもので、つまり大した評判だったわけだが、気の毒なことにこの美術家は、芸術的創作の自由を尊重しない粗野な群衆の犠牲になって、身をほろぼしてしまった。石責めにあって殺されたのだったが、それというのも彼が、町じゅうの人の膏血をしぼり上げたイカサマ銀行家の死顔に、「神と物語る至福の表情」を与えたからであった。そのイカサマ師のおかげで幸福になった遺族たちは、そんな註文を出して故人への感謝の念をあらわそうとしたのだが、その註文の芸術的執行人にとっては、それが死に値いしたというわけである。……
これと全く同じ非凡な芸術家の部類にぞくする名人が、実はわがロシヤにもいた。
※[#ローマ数字2、1−13−22]
わたしの弟の乳母をしていたのは、脊の高い、しなびた、それでいて頗る姿のいい婆さんで、リュボーフィ・オニーシモヴナという名前だった。この婆さんはもと、カミョンスキイ伯爵の持物だった旧オリョール劇場の女優をしていた女で、わたしがこれから話そうという一部始終は、おなじくオリョールの町で、わたしの少年時代に起ったことなのである。
弟はわたしより七つ年下だ。したがって弟が二歳で、リュボーフィ・オニーシモヴナの手に抱かれていた頃、わたしはもう満九歳ほどになっていたので、してもらう話がすらすら呑みこめたわけである。
その頃のリュボーフィ・オニーシモヴナは、まだ大して老けこんではおらず、まるで月のように色白だった。目鼻だちはほっそりと優しく、脊の高いそのからだはまっ直ぐに伸びきって何ともいえぬいい恰好で、まるで若い娘のようだった。
母や叔母は、つくづくその様子を眺めながら、若い頃にはさだめし美人だったに違いないと、言い言いしたものである。
彼女はじつに正直で、じつに柔和で、情あいのじつに濃やかな女だった。人生の悲劇的な面が好きで、しかも……時たまはかなり酒をやった。
彼女はわれわれ兄弟をよく三位一体寺の墓地へ散歩に連れて行ってくれたが、そこではいつも、古びた十字架のついたとある質素な墓のうえに腰かけて、わたしに何か話を聞かせてくれたものである。
わたしが彼女から「かもじの美術家」の話を聞いたのも、やはりそこでのことだった。
※[#ローマ数字3、1−13−23]
その男は、うちの乳母の劇場なかまであった。違うところといえばただ、彼女が「舞台に出て踊りを踊った」のに反し、彼は「かもじの美術家」――つまりカツラ師でありメーク・アップ師であって、伯爵の農奴連中から成る女優たちの「顔を作ったり髪を結ったり」するのが役目だったのである。とはいえこれは、かもじ櫛を耳にはさみ、ラードで伸ばした臙脂《べに》のはいったブリキ缶を手にした、そんじょそこらの月並みの職人とはちがって、れっきとした見識を具えた[#「見識を具えた」に傍点]男であり、まあ一口に言えば美術家[#「美術家」に傍点]なのであった。
リュボーフィ・オニーシモヴナの言うところによると、「顔に趣向を凝らす」ことにかけては、彼の右に出るものは誰一人なかった。
一体どのカミョンスキイ伯爵の代に、そうした二人の花形が全盛をうたわれたものか、そこのところはわたしにもはっきりしない。カミョンスキイ伯として知られている人に三人あって、そのいずれもオリョールの古老たちによって「稀代の暴君」と呼ばれている。元帥ミハイラ・フェドートヴィチは、その残忍さのたたりで一八〇九年に農奴たちの手にかかって落命した。その二人息子のうち、ニコライは一八一一年に歿し、セルゲイは一八三五年に亡くなっている。
四十年代にはまだほんの子供だったわたしも、煤や赤土で塗りこめた開かずの化粧|窓《まど》のならんでいる宏大な灰色の木造建物や、それを取囲んでいる恐ろしく長い半崩れの塀のことは、いまだに記憶に残っている。それがつまり、この土地の怨府の観のあったカミョンスキイ伯爵の屋敷だったのだ。おなじ屋敷うちに、例の劇場もあった。その小屋がまた、どうしたものだか三位一体寺の墓地からはとてもよく見えたもので、さてこそリュボーフィ・オニーシモヴナは、何か話しだそうとするたんびに、いつも大抵こんなふうに口を切るのであった、――
「ほらご覧、坊っちゃん、あすこを。……ほんとに、なんて気味のわるい?」
「うん、気味がわるいね、ばあやさん。」
「でもね、わたしがこれから話してあげることは、もっとずっと気味がわるいのよ。」
次にかかげるのは、そんなふうに彼女が話してくれたアルカージイというカモジの美術家についての話の一つである。これは多情多感で大胆な若者で、彼女の心に頗る近しい人物だった。
※[#ローマ数字4、1−13−24]
アルカージイが「髪を結ったり顔を作ったり」してやるのは、女優だけにかぎっていた。男優にはもう一人べつのカツラ師が附いていたのだが、仮りにアルカージイが時たま「男優部屋」へ顔を出すことがあるとすれば、それはただ伯爵自身が「誰それの顔を大いに立派に作れ」と下知した場合だけだった。この美術家のメーク・アップ術のおもな特長は、すぐれた見識にあり、それによって彼はどんな顔にも、じつに微妙な変幻自在な表情を与えることができたのだ。
「あの人が召し出されてね」と、リュボーフィ・オニーシモヴナは語るのだった、――「あの顔にこれこれかようの表情をつけろ、と御意があるんですよ。するとアルカージイは御前をさがって、その男優なり女優なりを自分の前に立たせるか坐らせるかして、じいっと腕組みをして考えこむんです。そんな時のあの人と来たら、どんな美男子よりもきれいでした。なにせ中脊とはいえ、なんともいえずすっきりといい恰好で、ほっそりした鼻には威厳がそなわってるし、眼には眼でまるで天使のような優しさがこもっているし、おまけに濃い前髪がえもいわれぬ風情で、眼のところへ垂れかかっているんですものね、――そんなふうにして、じっと見つめているあの人は、まるで霧か雲のなかから覗いているみたいな様子でしたよ。」
手みじかにいえば、かもじの美術家は美男子で、「みんなに[#「みんなに」に傍点]好かれていた」ということになる。「当の伯爵までが」やはり彼に目をかけて、「人並みはずれた扱いぶりで、りっぱな身なりをさせていたけれど、その一方ではきびしくその身を見張っていた」のだった。どんなことがあろうと、アルカージイが伯爵以外の人の髪を刈ったり、ひげを剃ったり、髪を調えたりすることを許さず、そんなわけで二六時ちゅう[#「二六時ちゅう」に傍点]彼を自身の化粧部屋に釘づけにしていたので、アルカージイは劇場へ行くほかには、どこへも外出できない身の上だった。
そればかりか、教会へ懺悔をしに行くことも、聖餐にあずかりに行くことも許されなかった。というのは伯爵自身が神を信じない人で、坊さんには我慢のならぬたちだったからである。一度などは復活祭のとき、十字架をささげて托鉢に来たボリソグレーブスクの坊さんたちに、ボルゾイ犬の群をけしかけたことさえあった*。
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*この出来事を知っている人はオリョールに大ぜいいる。わたしはこの話を祖母のアルフェーリエヴァからも聞き、また未だ曾つて嘘をついた例しのない老人として有名な、イヴァン・イヴァーノヴィチ・アンドローソフという商人からも聞いた。この商人はじきじきその眼で「猛犬どもが坊さんたちの衣をずたずたに裂く」有様を見ながら、「罪障をわが魂に着る」ことによって、からくも伯爵の魔手をのがれたのである。やがて伯爵が彼を面前へ呼び出して、「お前はきやつらを不憫に思うか?」とたずねたとき、アンドローソフは「とんでもござりません、閣下、ああしてやるのが当然でござります。のそのそほつき※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]って、うるさい手合いでござります」と答えた。それでカミョンスキイは彼を赦免したのだった。
[#ここで字下げ終わり]
その伯爵というのは、リュボーフィ・オニーシモヴナの話によると、何しろしょっちゅう癇癪ばかり起しているので、なんとも見られぬ醜怪な容貌で、同時に狼にも虎にも蛇にも、その他ありとあらゆる獣に似ていたそうである。けれどアルカージイは、そうした獣めいた御面相にさえも、よしんば束の間のこととはいえ、たとえば伯爵が劇場の枡に納まっている時など、余人にはあまり見られぬ堂々たる威厳が見えているといったふうの、趣向を凝らすことができたのであった。
ところが伯爵の人となりに欠けていたものは、アルカージイにとっては残念至極なことだが、何よりもその堂々たる威厳であり「武人の風格」であったのだ。
まあそんな次第で、世間の誰ひとりとして、このアルカージイほどの無双の美術家の奉仕にあずからしめまいという伯爵の方寸からして、あわれ彼は「休暇というものを一生涯もらえず、また生まれ落ちてこのかた一文のお銭もその手のうちに見ずに」いぶり暮らしていたのであった。しかも彼はすでに満二十五歳をすぎ、リュボーフィ・オニーシモヴナは十九歳の妙齢にあった。二人が相識の間がらであったことは言うまでもないが、それがやがて、その年頃にはえてして起りがちの状態にまで進んだ。つまり二人は相愛の仲になったのである。とはいえ彼らの愛のささやきはただ衆人環視のなかで顔を作らせ作られながら、それとなしに交わす目まぜ目くばせに限られていた。
二人さしむかいの逢う瀬などは、どだい出来ぬ相談なばかりか、夢にも考えられぬことなのだった。……
「わたしたち女優は」と、リュボーフィ・オニーシモヴナは語るのだった、――「ずいぶん大切に目
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