た未だ曾つて嘘をついた例しのない老人として有名な、イヴァン・イヴァーノヴィチ・アンドローソフという商人からも聞いた。この商人はじきじきその眼で「猛犬どもが坊さんたちの衣をずたずたに裂く」有様を見ながら、「罪障をわが魂に着る」ことによって、からくも伯爵の魔手をのがれたのである。やがて伯爵が彼を面前へ呼び出して、「お前はきやつらを不憫に思うか?」とたずねたとき、アンドローソフは「とんでもござりません、閣下、ああしてやるのが当然でござります。のそのそほつき※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]って、うるさい手合いでござります」と答えた。それでカミョンスキイは彼を赦免したのだった。
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その伯爵というのは、リュボーフィ・オニーシモヴナの話によると、何しろしょっちゅう癇癪ばかり起しているので、なんとも見られぬ醜怪な容貌で、同時に狼にも虎にも蛇にも、その他ありとあらゆる獣に似ていたそうである。けれどアルカージイは、そうした獣めいた御面相にさえも、よしんば束の間のこととはいえ、たとえば伯爵が劇場の枡に納まっている時など、余人にはあまり見られぬ堂々たる威厳が見えているといったふうの、趣向を凝らすことができたのであった。
ところが伯爵の人となりに欠けていたものは、アルカージイにとっては残念至極なことだが、何よりもその堂々たる威厳であり「武人の風格」であったのだ。
まあそんな次第で、世間の誰ひとりとして、このアルカージイほどの無双の美術家の奉仕にあずからしめまいという伯爵の方寸からして、あわれ彼は「休暇というものを一生涯もらえず、また生まれ落ちてこのかた一文のお銭もその手のうちに見ずに」いぶり暮らしていたのであった。しかも彼はすでに満二十五歳をすぎ、リュボーフィ・オニーシモヴナは十九歳の妙齢にあった。二人が相識の間がらであったことは言うまでもないが、それがやがて、その年頃にはえてして起りがちの状態にまで進んだ。つまり二人は相愛の仲になったのである。とはいえ彼らの愛のささやきはただ衆人環視のなかで顔を作らせ作られながら、それとなしに交わす目まぜ目くばせに限られていた。
二人さしむかいの逢う瀬などは、どだい出来ぬ相談なばかりか、夢にも考えられぬことなのだった。……
「わたしたち女優は」と、リュボーフィ・オニーシモヴナは語るのだった、――「ずいぶん大切に目をかけられましたが、その扱いはまあ、上《うえ》つがたのお屋敷で若い乳母たちの受ける取締りに似ていました。老女衆がお目付役につけられて、その老女衆にはめいめい子供があります。そして万が一、わたしたちのうち誰かしらの身に何かあやまちが起ろうものなら最後、老女衆の子供たちが寄ってたかって、世にもむごい仕打ちに逢わせるのでした。」
不義はお家の御法度とやらいう掟を破っていいのは、その掟を定めた当の「殿様」御自身だけだったのだ。
※[#ローマ数字5、1−13−25]
リュボーフィ・オニーシモヴナは当時、娘ざかりの絶頂にあったばかりでなく、その多方面な才能の発達の上からいっても、最も興味ある時期にあたっていた。彼女は『名曲集《ポ・プリ》』の合唱にも加われば、『シナの菜園婦』では踊り子のリード役もつとめる。また悲劇役者の天分を感じていたので、「どんな役でも一目で[#「一目で」に傍点]呑みこみました」といった調子であった。
そんな年ごろのこと、何年の何月とははっきり分らないが、とにかく陛下が行幸の途すがら、オリョールに立寄られたことがあった(それも、アレクサンドル・パーヴロヴィチ帝だったかニコライ・パーヴロヴィチ帝だったか、そこは分らない)。そしてオリョールで一泊ということになり、その晩はカミョンスキイ伯の劇場に臨御になるはずであった。
そこで伯爵は土地の貴紳をのこらずその劇場に招待し(したがって座席券は売出されなかった)、極上きわめつきの出し物をすぐって上演した。リュボーフィ・オニーシモヴナは『名曲集』の合唱をやり、『シナの菜園婦』を踊ることになっていたところ、そこへ突然、最後の本稽古の最中に、書割りが倒れて、ある女優が脚に打撲傷を負った。その女優は『ド・ブールブラン公夫人』という芝居の主役を振られていた。
わたしはそんな名前の役には、ついぞ何処でもお目にかかったことがないが、とにかくリュボーフィ・オニーシモヴナは確かにそう発音したのである。
書割りを倒した大道具衆は、お仕置きのため馬屋へ閉じこめられ、負傷した女優はさっそく自分の小部屋へ運びこまれたが、さて肝腎のド・ブールブラン公夫人の役をやる女優が誰もいない。
「そこでね」と、リュボーフィ・オニーシモヴナは語る、――「わたしが買って出たのです。というのも、ド・ブールブラン公夫人が父君の足もとに身を投
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