、早くぐっとおやりな!」
 わたしは忽ち、その壜を空っぽにしてしまいました。とても厭な味だったが、でもそれがないと眠れなかったのです。その次の晩もやっぱり飲んで……それがとうとう習い性になって……今じゃもうそれがないと寝つけないのですよ。そこでこうして小っちゃな水筒を手に入れて、お酒をちょいちょい買ってくるんですよ。……でも坊っちゃんはいい子だから、ママさんに言いつけなんかしませんわね。しもじもの者に、煮湯を呑ませるもんじゃありませんよ。しもじもの者は目にかけてやらなければいけませんよ。だってしもじもの者は、みんな受難者なんですものねえ。今日もこれから帰りしなに、わたしはあの居酒屋の角のところで、小窓をトントンと叩くんですよ。……まさか自分であの店へはいるわけには行きませんからね。この空っぽの水筒を窓から入れてやって、また一杯にしてもらうのですよ。」
 子供ごころにも乳母の気持が身にしみて、わたしはどんなことがあっても決してその『水筒』のことは口外しないと、かたく約束した。
「ありがとうよ、坊っちゃん、――言いつけないで下さいね。ばあやはこれがないと、生きて行けないのですからね。」
 今でもこうして目をつぶると、わたしはありありとあの乳母の姿を目に見、その声を耳に聞く思いがするのである。夜がふけて家じゅうが寝しずまると、毎晩のように乳母は、骨の節ひとつ鳴らさぬように用心しいしい、そっと寝床に半身をおこす。しばらくじっと聴き耳を立ててから、やがて起きだすと、例の細長いリューマチの脚を忍ばせて、小窓の方へ行く。……やや暫したたずんで、あたりをうかがい、またも聴き耳をたてる。寝部屋からママが出て来はしまいかと案じるのである。それから、やおら例の『水筒』の頸をカチリと歯に当てると、呼吸をはかって「一杯やる」のであった。ぐびり、またぐびり、またもう一ぺん。……そんなふうに炭火をしめして、アルカーシャの追善をすると、ふたたび寝床へかえってゆく。――そうして毛布の下へもぐりこむと、まもなく静かに、じつに静かに、フュー・フュー、フュー・フュー、フュー・フューと寝息を立てはじめる。そしてぐっすり寝入ってしまうのだ!
 何が怖ろしいといって、これほど凄惨な、胸の底まで掻きむしられるような追善供養を、わたしはこの年になるまで見たことがない。



底本:「真珠の首飾り 他二篇」岩波文庫、
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