なるほどあの人の手紙には、もうちゃんと士官になって、十字章ももらい名誉の負傷もある身だと書いてはありましたけれど、そのため伯爵のもてなしぶりが昔と違おうなどとは、とても考えられなかった」からであった。
手みじかに言えばつまり、相変らず彼が打擲されはしまいかと案じたわけである。
※[#ローマ数字18、197−2]
あくる朝はやく、リュボーフィ・オニーシモヴナは仔牛を日なたへ出して、小さな盥《たらい》に入れたパン皮や乳で養いはじめたが、その時とつぜん、異様な物音がきこえだした。それはお屋敷の奉公人たちが、「自由に」垣根のそとを何処かへ急いで行くらしく、どんどん駈けだしながら、何やら早口でわめきかわしているのだった。
――一体なにを話しているのやら(と、乳母は語るのだった――)、わたしには一言も聞きとれませんでしたが、その一言一言がまるで匕首になって、この胸に突きささる思いがしましたよ。その時ちょうど、肥《こえ》運びのフィリップが門内へ乗りこんで来ましたので、わたしは渡りに舟とばかり、――
「ねえフィーリュシカ、ひょっとしてお前さん知らないかい? あの人たちは何しに行くんだい、何を珍らしそうに話し合っているんだい?」
と聞きますと、
「あれはなあ」という返事です、――「プシカーリ村でな、旅籠屋の亭主が真夜中ぐっすり寝こんでる士官を刺し殺したとかいうんで、それを見物に行くのさ。刺すも刺したり、喉笛ま一文字に切ってのけてな、大枚五百両という金をふんだくったとよ。もう捕《つら》まったが、総身にべっとり返り血を浴びてな、金もちゃんと持っていたそうだよ。」
その話を聞くなり、わたしはへたへたと腰が抜けてしまいました。
まったくその通りだったのです。その亭主はアルカージイ・イリイーチを刺し殺したのでした。……そしてあの人は、それこの、ほかでもない今わたしたちの腰掛けているこのお墓の中に、葬られたのですよ。……ええ、そうですとも。あの人は未だにわたしたちの下に、この塚の下に寝ているのですよ。……坊っちゃんはさぞかし、わたしが散歩といえば必らずここへ来るのを、不思議に思いなすったでしょうね。……わたしは二度とふたたび、あすこを(と、陰気な灰色をした廃墟をゆびさして――)この眼で見たいとは思いません。ただ残る望みといえばもう、ここでこうしてあの人のそばに一とき坐
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