主でした。これに反して父セルゲイ・ツルゲーネフは、貴族とは名ばかりの、ほとんど破産に瀕《ひん》した一《いち》騎兵大佐《きへいたいさ》にすぎず、母よりも六つも年下であるばかりか、その性格も冷やかで、弱気で優柔《ゆうじゅう》で、おまけに頗《すこぶ》る女好きな伊達者《だてしゃ》であったと伝えられています。この女暴君と伊達者との間に生れたのが、イヴァン・ツルゲーネフだったのです。
 そうした血統上の痕跡《こんせき》は、何よりも雄弁《ゆうべん》にツルゲーネフの生活(彼は一生涯《いっしょうがい》独身で押し通しました)が物語っているのですが、文芸作品の面から言うと、ここに訳出した短編『はつ恋』に、最もあざやかに現われていると言えます。これは一八六〇年の作で、すなわち『その前夜』と『父と子』の間に位し、ツルゲーネフ中期の円熟した筆で書かれた作品ですが、そこにあざやかに描《えが》き出された一少年の不思議な「はつ恋」の体験のいきさつは、その底に作者自身の一生を支配した宿命的な呪《のろ》いの裏づけがあることを知るに及《およ》んで、一層不気味な迫力《はくりょく》を帯びてくるのを感じずにはいられません。いわばそこには、不気味な美があります。「男は弱く、女は強い。そして偶然《ぐうぜん》が、全能の力をもっている」とは、晩年近い作『けむり』の中に見える言葉ですが、このような苦渋《くじゅう》な哲学が早くも少年時代の彼の中に芽ばえなければならなかったことを、『はつ恋』一編はありありと示しています。そこにこの作品の最も大きな特色があると言えましょう。
 ツルゲーネフは一八八三年の夏、パリの郊外《こうがい》で亡《な》くなりました。その死後やがて七十周年になるわけです。
[#地から2字上げ](一九五二年晩秋)



底本:「はつ恋」新潮文庫、新潮社
   1952(昭和27)年12月25日発行
   1986(昭和62)年1月30日73刷改版
   1988(昭和63)年5月20日79刷
入力:蒋龍
校正:noriko saito
2010年1月20日作成
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