うか》で人《ひと》に出遇《であ》ふと、先《ま》づ道《みち》を除《よ》けて立留《たちどま》り、『失敬《しつけい》』と、さも太《ふと》い聲《こゑ》で云《い》ひさうだが、細《ほそ》いテノルで然《さ》う挨拶《あいさつ》する。彼《かれ》の頸《くび》には小《ちひ》さい腫物《はれもの》が出來《でき》てゐるので、常《つね》に糊付《のりつけ》シヤツは着《き》ないで、柔《やは》らかな麻布《あさ》か、更紗《さらさ》のシヤツを着《き》てゐるので。而《さう》して其服裝《そのふくさう》は少《すこ》しも醫者《いしや》らしい所《ところ》は無《な》く、一つフロツクコートを十|年《ねん》も着續《きつゞ》けてゐる。稀《まれ》に猶太人《ジウ》の店《みせ》で新《あたら》しい服《ふく》を買《か》つて來《き》ても、彼《かれ》が着《き》ると猶且《やはり》皺《しわ》だらけな古着《ふるぎ》のやうに見《み》えるので。一つフロツクコートで患者《くわんじや》も受《う》け、食事《しよくじ》もし、客《きやく》にも行《ゆ》く。然《しか》し其《そ》れは彼《かれ》が吝嗇《りんしよく》なるのではなく、扮裝《なり》などには全《まつた》く無頓着《むとんぢやく》なのに由《よ》るのである。
 アンドレイ、エヒミチが新《あらた》に院長《ゐんちやう》として此町《このまち》に來《き》た時《とき》は、此《こ》の病院《びやうゐん》の亂脈《らんみやく》は名状《めいじやう》すべからざるもので。室内《しつない》と云《い》はず、廊下《らうか》と云《い》はず、庭《には》と云《い》はず、何《なん》とも云《い》はれぬ臭氣《しうき》が鼻《はな》を衝《つ》いて、呼吸《いき》をするさへ苦《くる》しい程《ほど》。病院《びやうゐん》の小使《こづかひ》、看護婦《かんごふ》、其《そ》の子供等抔《こどもらなど》は皆《みな》患者《くわんじや》の病室《びやうしつ》に一|所《しよ》に起臥《きぐわ》して、外科室《げくわしつ》には丹毒《たんどく》が絶《た》えたことは無《な》い。患者等《くわんじやら》は油蟲《あぶらむし》、南京蟲《なんきんむし》、鼠《ねずみ》の族《やから》に責《せ》め立《た》てられて、住《す》んでゐることも出來《でき》ぬと苦情《くじやう》を云《い》ふ。器械《きかい》や、道具《だうぐ》などは何《なに》もなく外科用《げくわよう》の刄物《はもの》が二つある丈《だ》けで體温器《たいをん
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