る。が、又《また》直《たゞち》に自分《じぶん》の云《い》ふ事《こと》を聽《き》く者《もの》は無《な》い、其《そ》の云《い》ふ事《こと》が解《わか》るものは無《な》いとでも考《かんが》へ直《なほ》したかのやうに燥立《いらだ》つて、頭《あたま》を振《ふ》りながら又《また》歩《ある》き出《だ》す。然《しか》るに言《い》はうと云《い》ふ望《のぞみ》は、終《つひ》に消《き》えず忽《たちまち》にして總《すべて》の考《かんがへ》を壓去《あつしさ》つて、此度《こんど》は思《おも》ふ存分《ぞんぶん》、熱切《ねつせつ》に、夢中《むちゆう》の有樣《ありさま》で、言《ことば》が迸《ほとばし》り出《で》る。言《い》ふ所《ところ》は勿論《もちろん》、秩序《ちつじよ》なく、寐言《ねごと》のやうで、周章《あわて》て見《み》たり、途切《とぎ》れて見《み》たり、何《なん》だか意味《いみ》の解《わか》らぬことを言《い》ふのであるが、何處《どこ》かに又《また》善良《ぜんりやう》なる性質《せいしつ》が微《ほのか》に聞《きこ》える、其言《そのことば》の中《うち》か、聲《こゑ》の中《うち》かに、而《さう》して彼《かれ》の瘋癲者《ふうてんしや》たる所《ところ》も、彼《かれ》の人格《じんかく》も亦《また》見《み》える。其意味《そのいみ》の繋《つな》がらぬ、辻妻《つじつま》の合《あ》はぬ話《はなし》は、所詮《しよせん》筆《ふで》にする事《こと》は出來《でき》ぬのであるが、彼《かれ》の云《い》ふ所《ところ》を撮《つま》んで云《い》へば、人間《にんげん》の卑劣《ひれつ》なること、壓制《あつせい》に依《よ》りて正義《せいぎ》の蹂躙《じうりん》されてゐること、後世《こうせい》地上《ちじやう》に來《きた》るべき善美《ぜんび》なる生活《せいくわつ》のこと、自分《じぶん》をして一|分《ぷん》毎《ごと》にも壓制者《あつせいしや》の殘忍《ざんにん》、愚鈍《ぐどん》を憤《いきどほ》らしむる所《ところ》の、窓《まど》の鐵格子《てつがうし》のことなどである。云《い》はゞ彼《かれ》は昔《むかし》も今《いま》も全《まつた》く歌《うた》ひ盡《つく》されぬ歌《うた》を、不順序《ふじゆんじよ》に、不調和《ふてうわ》に組立《くみたて》るのである。

       (二)

 今《いま》から大凡《おほよそ》十三四|年《ねん》以前《いぜん》、此《こ》の町《
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