おり、いやしくも本のひろげられる場所ならどこででも、つねづね肌身はなさず持ち歩いている『ヨーロッパ通報』〔[#割り注]当時のリベラリスティクな大雑誌[#割り注終わり]〕をあけて読んでいるという男だった。ロブィトコは服を脱いでからも、なんだかもの足りなそうな顔をして、部屋の隅から隅へ長いこと行ったり来たりしていたが、やがて従卒を呼んで、ビールを買いに外へ出した。メルズリャコーフは横になると、枕もとに蝋燭を立てて、一心不乱に『ヨーロッパ通報』を読みだした。
『一体どれだろうな、あの女は?』とリャボーヴィチは煤ぼけた天井を眺めながら考えていた。
彼の頸筋は、いまだに香油でも塗られたような気持だったし、口のあたりはまるで薄荷水でも滴《た》らしたようにすうすうしていた。彼の想像の中にはちらちらと、藤色の令嬢の肩だの腕だの、黒服の金髪令嬢の鬢の毛だの純真な眼つきだの、そうかと思うと誰彼の腰だの衣裳だのブローチだのが、浮んだり消えたりしていた。彼はそうした幻の上に自分の注意をじっと据えてみようと努力したけれど、相手のほうではお構いなしに跳ね※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]ったり、微塵に砕け散ったり、明滅したりするのだった。やがて、誰でも、眼をつぶると見えるあの広びろした真黒な背景の上から、今いったような幻がすっかり消え失せてしまうと、今度は彼の耳に気ぜわしげな足音や、さらさらいう衣ずれの音や、ちゅっという接吻の響きがきこえだして、――強烈な、これという理由もない歓喜の情が、彼をとらえてしまった。……その嬉しさに身をゆだねながら、彼は従卒が帰って来て、ビールはありませんと復命するのを夢うつつのうちに聞いていた。ロブィトコはおそろしく憤慨して、またもや大股に歩きはじめた。
「なあ、こいつ白痴《こけ》じゃないのかい?」と彼は、リャボーヴィチの前に立停ったり、メルズリャコーフの前に立停ったりしながら言うのだった。「ビール一つ見つけられんなんて、木偶《でく》の坊とも大馬鹿とも、方図が知れんじゃないか! ああん? いやさ、こいつ横着なんじゃないのかい?」
「当り前ですよ、こんな所にビールがあるもんですか」とメルズリャコーフが言ったが、眼は相変らず『ヨーロッパ通報』から離しもしない。
「へえ? 君はそう思うのかい?」とロブィトコはからんで行った。「やれやれ情けない話だ、この僕だったらたとえ月世界へ抛り出されたところで、即座にビールでも女でも見つけだして差上げるぜ! そうだ、これから一っ走り行って見つけて来よう。……もし見つからなかったら、僕を卑劣漢とでもなんとでも呼び給えだ!」
彼はぐずぐずと長いことかかって服をつけ、大きな長靴をやっとこさで穿いてから、黙々として巻煙草を一本すい終ってから、ようやく出て行った。
「ラッベク、グラッベク、ロァッベクか。」彼は玄関で立停りながらぼやきはじめた。「一人で行くのはつまらんなあ、畜生め。リャボーヴィチ、君ひとつプロムナージュ〔[#割り注]プロムナード(散歩)の覚え違え[#割り注終わり]〕を試みないかい? ええ?」
返事がなかったので、彼は引返して来て、ぐずぐずしながら服を脱いで、寝床に横になった。メルズリャコーフは溜息をつくと、『ヨーロッパ通報』を傍へ押しやって、蝋燭を吹き消した。「ふむ、そうか?……」とロブィトコは暗闇の中で巻煙草を喫いつけながら呟いた。
リャボーヴィチは頭からすっぽり毛布を引っかぶって、からだを蝦《えび》みたいに丸めると、想像の中で例のちらちらする幻を拾いあつめて、一つの完全な姿にまとめ上げようとしだした。ところがさっぱり駄目だった。間もなく彼は眠りに落ちてしまったが、彼が最後に考えたことは、誰かが自分を愛撫して喜ばせてくれたのだ、自分の生涯に何かしら並々ならぬ、馬鹿らしい、とはいえ頗るもって甘美なよろこばしい出来事があったのだ、ということだった。この想念は夢の中でも彼を離れなかった。
彼が眼をさました時には、頸筋の香油を塗られたような気持や、唇のあたりの薄荷水を滴らしたようなすうすうした感じはもうなかったが、ぞくぞくするような嬉しさは昨夜と変りなく、胸の中に寄せつ返しつしていた。彼は悦びにうっとりしながら、さし昇る朝日を受けて金色に輝いている窓枠を眺めたり、往来に始まっている人や車の動きに耳を傾けたりした。すぐ窓の下で大きな話声がしていた。リャボーヴィチの隊の中隊長をしているレベデツキイが、今しがた旅団に追いついたところで、日ごろ物静かに話しつけない人だものだから、とても大きな声で部下の曹長を相手にしゃべっていた。
「まだ何かあるか?」と中隊長がどなった。
「昨日の蹄鉄打換えの際、中隊長殿、小鳩号《ゴープチノ》の蹄《ひずめ》を傷つけました。軍医補が醋酸を加えた粘土をつけてや
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