花のようだ、ですって。
ヤーシャ (あくび)無学な連中だ……(退場)
ドゥニャーシャ 花のようだ、ですって。……あたし、そりゃデリケートな娘だもので、うっとりするような言葉が大好き。
フィールス そろそろおっぱじめるな、お前さんも。
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エピホードフ登場。
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エピホードフ ああ、ドゥニャーシャさん、あなたは僕《ぼく》を見るのが、さも厭《いや》そうですね……虫けらかなんぞのように。(ため息をつく)あわれ人生よ、だ!
ドゥニャーシャ 何のご用ですの?
エピホードフ もちろんそりゃ、あなたの方が正しいのかも知れない。(嘆息する)しかし無論ですな、その……ある観点からすると、あなたという方は、まあ率直に言わせて頂くとですな、要するに僕を、こんな精神状態に落し入れてしまったと、あえて言わざるを得んのです。僕は自分の宿命を承知している。僕の身には、毎日かならず何かしら不仕合せが起るし、僕はもうとうに馴《な》れっこになって、おのれが運命を微笑をもって眺《なが》めています。要するにですな、あなたは一たん約束された。で、よしんば僕が……
ドゥニャーシャ どうぞそのお話は、のちほどに願いますわ。今はあたしを、そっとしておいてちょうだい。だって、空想してるんですもの。(扇をもてあそぶ)
エピホードフ 僕は毎日不仕合せにぶつかります。しかし僕は、あえて言えばですな、ただ微笑しています、いや、ハッハッハと笑ってさえいます。
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広間からワーリャ登場。
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ワーリャ お前まだここにいたの、エピホードフ? ほんとに、なんていい加減な人間だろう。(ドゥニャーシャに)お前もあっちへおいで、ドゥニャーシャ。(エピホードフに)玉突きをしてキューを折ったかと思えば、お客さま面《づら》をして客間を歩きまわったりして。
エピホードフ こう申しては失礼ですが、あなたからお小言を頂く筋合いはありません。
ワーリャ 小言なんか言ってやしない、話をしているんだよ。することと言ったら、仕事はそっちのけで、ふらふら歩きまわることばかり。せっかく執事をやとっても、なんのためやら――わかりゃしない。
エピホードフ (ムッとして)わたしが仕事をしようと、歩きまわろうと、食べようと、玉を突こうと、それについてとやかく仰しゃれるのは、物のわかった人か目上のかただけですよ。
ワーリャ よくも言えたね、わたしにそんなことが! (カッとなって)言ったわね? つまりわたしが、わからずやだと言うんだね? とっとと出てくがいい! さあ今すぐ!
エピホードフ (怖気《おじけ》づいて)もう少々その、デリケートな言葉で、どうぞ。
ワーリャ (われを忘れて)さっさと出てけったら! さ、出てけ! (エピホードフがドアの方へ行くのを、彼女は追う)二十二の不仕合せめ! お前のにおいがプンとでもしたら承知しないよ! 二度とその顔を見せてもらうまい! (エピホードフ退場。ドアの向うで、「あなたのことを、言いつけますからね」という彼の声がする)おや、また返って来るんだね? (フィールスがドアのそばに立てかけておいた杖をつかむ)さあ来い……来るならおいで、目にもの見せてやるから。……来るんだね? え、来るんだね? よおし、こうしてやる……(杖をふりあげる、とたんにロパーヒン登場)
ロパーヒン これはどうも恐縮。
ワーリャ (怒りと嘲笑《ちょうしょう》をまぜて)失礼!
ロパーヒン どうしまして。結構なご馳走《ちそう》で、あつくお礼を。
ワーリャ 礼には及びません。(その場から離れ、やがて振りかえって、やさしく尋ねる)お怪我《けが》はなかったかしら?
ロパーヒン いや、なあに。もっとも、でっかい瘤《こぶ》ぐらいできそうですがね。
広間の声々 ロパーヒンが来た! ロパーヒンさんだわ!
ピーシチク いよう、これはこれは、ようこそご入来《じゅらい》……(ロパーヒンにキスする)この可愛《かわい》い男は、ちょっぴりコニャックの匂《にお》いがするな、おい君。われわれもこの通り、愉快にやっとるよ。
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ラネーフスカヤ夫人登場。
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ラネーフスカヤ まあ、あなたでしたの、ロパーヒンさん? どうしてこんなに遅かったの? レオニードはどうしまして?
ロパーヒン お兄さまも、一緒に戻《もど》られました。すぐ見えます……
ラネーフスカヤ (わくわくしながら)で、どうでしたの? 競売はありまして? さ、話してちょうだい!
ロパーヒン (嬉しさを外へ出すまいとして、しどろもどろに)競売は四時ちかくに終りました。……わたしたちは汽車に乗りおくれたもので、九時半まで待たにゃならなかったんです。(苦しそうに息をついて)ふうっ! すこし頭がぐらぐらする……
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ガーエフ登場。右手には買物をさげ、左手で涙をふいている。
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ラネーフスカヤ リョーニャ、どうだったの! ねえ、リョーニャ! (じりじりして、涙ぐんで)早くして、後生だから……
ガーエフ (一言も答えず、ただ片手を振る。泣きながらフィールスに)これを取ってくれ。……アンチョビイと、ケルチ([#ここから割り注]訳注 クリミア半島の東端[#ここで割り注終わり])のニシンとだ。……わたしは今日、なんにも食べなかったよ。……ああ、まったくひどい目に会った! (玉突き部屋へのドアがあいていて、球の音と、ヤーシャが「七と十八!」という声がきこえる。ガーエフの表情が変って、もう泣かずに)いやもう、へとへとだ。なあフィールス、着がえさせてくれ。(広間を抜けて自分の居間へ去る。フィールスつづく)
ピーシチク どうだったね、競売は? 話してくれよ、さあ!
ラネーフスカヤ 売れたの、桜の園は?
ロパーヒン 売れました。
ラネーフスカヤ 誰が買ったの?
ロパーヒン わたしが買いました。(間)
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ラネーフスカヤ夫人、がっくりとなる。もし肘《ひじ》かけ椅子《いす》とテーブルのそばに立っていなかったら、倒れたにちがいない。ワーリャはバンドから鍵束《かぎたば》をはずし、それを客間中央の床へ投げつけて退場。
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ロパーヒン わたしが買ったんです! ちょっと待ってください、皆さん、お願いです。わたしは頭がぼおっとしてしまって、ものが言えないんです。……(笑う)わたしたちが競売場に着いてみると、デリガーノフはもう来ていました。ガーエフさんには、たった一万五千しかないのに、あのデリガーノフはいきなり、抵当額の上に三万と吹っかけてきました。こいつはいかんと思って、わたしはやつを向うにまわして、四万と打って出た。向うは四万五千とくる。そこでこっちは五万五千。つまり、やつは五千ずつ上げてくるのに、わたしは一万ずつ上げて行った。……やがて、ケリがついた。抵当額の上に、わたしは九万と踏んばって、まんまと落したんです。桜の園は、もうわたしのものだ! わたしのものなんだ! (からからと笑う)ああどうしたことだ、皆さん、桜の園がわたしのものだなんて! 言いたいなら言うがいい、わたしが酔っているとでも、気が変だとでも、夢を見てるんだとでも……(足を踏み鳴らす)わたしを笑わないでください! うちの親父《おやじ》や祖父《じい》さんが、墓の下から出てきて、この始末を見たらどうだろう。あのエルモライが、なぐられてばかりいた、字もろくすっぽ書けないエルモライが――冬でもはだしで駆けまわっていたあの餓鬼が、まぎれもないそのエルモライが、世界じゅうに比べものもない美しい領地を、買ったのだ。そこでは親父も祖父さんも奴隷《どれい》だった、台所へさえ通しちゃもらえなかった、その領地をわたしが買ったのだ。わたしが寝ぼけてるって、ただの夢だって、……気の迷いだって。……とんでもない、それこそあなたがたの得手勝手《えてかって》な想像の、無知のやみに包まれた産物《まぼろし》なのだ。……(鍵束を拾いあげ、うっとりほほえみながら)鍵を投げてったな。もうここの主婦ではないというところを、見せようっていうんだな。……(鍵束をがちゃつかせる)ふん、まあどっちでもいい。(オーケストラの調子を合せる音がきこえる)おおい、楽隊、やってくれ、おれが聴いてやるぞ! みんな来て見物するがいい、このエルモライ・ロパーヒンが桜の園に斧《おの》をくらわせるんだ、木がばたばた地面へ倒れるんだ! どしどしここへ別荘を建てて、うちの孫や曾孫《ひいまご》のやつらに、新しい生活を拝ませてやるぞ。……楽隊、やってくれ!
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音楽がはじまる。ラネーフスカヤ夫人は椅子に沈みこんで、はげしく泣く。
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ロパーヒン (責めるように)一体なぜ、なんだってあなたは、わたしの言うことを聴かなかったんです? わたしの大事な奥さん、お気の毒ですが、今となってはとり返しがつきません。(涙ぐんで)ああ早く、こんなことが過ぎてしまえばいい。なんとかして早く、今のようながたぴしした、面白《あもしろ》くもない生活が、がらりと変ってしまえばいい。
ピーシチク (彼の腕をかかえて、小声で)この人は泣いてるよ。な、広間へ行こう、一人にしてあげたほうがいい。……行こうや。……(腕をかかえて。広間へ連れ去る)
ロパーヒン どうしたんだ? 楽隊、しっかりやらんか! なんでも、おれの注文どおりやるんだ! (皮肉に)新しい地主のお通りだ、桜の園のご主人さまのな! (うっかり小テーブルにぶつかり、枝付|燭台《しょくだい》をひっくり返しそうになる)なんでも代は払ってやるぞ! (ピーシチクとともに退場)
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広間にも客間にも、ラネーフスカヤ夫人のほか誰もいない。彼女は腰かけたなり、全身をすぼめて、はげしく泣いている。ひそやかな奏楽の音。いそぎ足でアーニャとトロフィーモフ登場。アーニャは母のそばへ寄り、その前にひざまずく。トロフィーモフは、広間の入口に立つ。
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アーニャ ママ! ……泣いてらっしゃるの、ママ? いとしい、親切な、やさしい、ママ。わたしの大事なママ、わたしあなたを愛していますわ。……わたし、お祝いを言いたいの。桜の園は売られました、もうなくなってしまいました。それは本当よ、本当よ。でも泣かないでね、ママ、あなたには、まだ先の生活があるわ。そのやさしい、清らかな心もあるわ。……さ、一緒に行きましょう、出て行きましょうよ、ねえ、ママ、ここから! ……わたしたち、新しい庭を作りましょう、これよりずっと立派なのをね。それをご覧になったら、ああそうかと、おわかりになるわ。そして悦《よろこ》びが――静かな、ふかい悦びが、まるで夕方の太陽のように、あなたの胸に射《さ》しこんできて、きっとニッコリお笑いになるわ、ママ! 行きましょう、ね、大事なママ! 行きましょうよ! ……
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[#地から2字上げ]――幕――
[#改ページ]
第四幕
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舞台は第一幕に同じ。ただし窓のカーテンも壁の画《え》もなく、残っている僅《わず》かの家具も一隅《いちぐう》に積みかさねられて、さしずめ売物とでもいった形。がらんとした感じがする。出口のドアのそばと舞台の裏とに、トランクや旅行用の包みなどが、積みかさねてある。左手のドアは開けはなしで、そこからワーリャとアーニャの声がきこえる。
ロパーヒンが立って、待ち受けている。ヤーシャは、シャンパンのついである小さなグラスを並べた盆をささげている。次の間で
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