ェフは町の尽きるところの、とある横町に馬車を残して、自分は歩いて墓地へ向かった。『誰にだって妙なところはあるものさ』と彼は考えるのだった、『猫ちゃんにしても一風変わった娘だからなあ、――なに分かるもんか――ひょっとしたらあれは冗談じゃなくって、本当にやって来るかも知れないさ』――そして彼は、この力ない虚《うつ》ろな希望に身も心もまかせ切って、そのおかげでうっとり酔い心地になってしまった。
 ものの四、五町ほど彼は野道を歩いた。墓地ははるか彼方に黒々とした帯になって現われ、まるで森か、さもなくば大きな庭園を見るようだった。やがて白い石垣や門が見えてきた。……月の光をたよりに、その門の上の方に記された文字が読みとられた。『*……の時きたらん』というのである。スタールツェフは小門《くぐり》からはいると、まず第一に目に触れたのは、ひろい並木路の両側にずらりと立ち並んだ白い十字架や石碑と、それやポプラの木がおとす黒い影とであった。ぐるりを見てもはるか遠方まで白と黒とに塗りつぶされて、眠たげな木々がその枝を白いものかげの上に垂れている。ここは野原の中よりも明るいような気がした。鳥や獣の足によく似た楓の葉が、並木路の黄色い砂の上や墓石の上にくっきりと影を描いて、石碑の文字も明らかに浮かび出ていた。初めのうちスタールツェフは、自分が生涯にいま初めて目にし、そして恐らくもう二度と再び目にする機会はあるまいと思われるこの光景に、すっかり心を打たれてしまった。それは他の何ものにも比べようのない世界、――まるでここが月光の揺籃《ゆりかご》ででもあるかのように、月の光がいかにもめでたくいかにも柔《やさ》しくまどろんでいる世界、そこには生の気配などいくら捜してもありはしないけれど、しかし黒々としたポプラの一本一本、墓の盛土の一つ一つに、静かな、すばらしい、永遠の生を約束してくれる神秘のこもっていることの感じられる、そのような世界であった。墓石からも凋《しぼ》んだ花からも、秋の朽葉《くちば》の匂いをまじえて、罪の赦《ゆる》し、悲哀、それから安息がいぶいて来るのだった。
 あたりは沈黙だった。この深い和らぎの中に、大空からは星がみおろしていて、スタールツェフの足音がいかにも鋭く、心なく響きわたるのだった。やがてお寺で夜半の祈祷《きとう》の鐘が鳴りだすと、彼はふと自分が死んで、ここに永遠に埋められて
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