き》をはずませてゐるやうに見えた。
それから、昼食のご馳走になり、地上勤務部隊の隠れた苦心談を聴きながら、以前支那兵営であつた宿舎を一巡した。それは殆ど普通民家を大きくしたやうな建物で、例の土をかためて壁と屋根とを作り、若干の部分に石灰を塗つて白く外観を装つてゐるだけである。
裏庭の一隅にアンペラで囲つた急造便所ができてゐる。「下痢患者用」と書かれた貼札が眼を惹き、いま食卓を共にした若い見習医官大谷博士の言葉を思ひ出した。腹をこはすとなかなか恢復が困難らしい。
午後、序があるといふので、保定まで自動車へ乗せて行つてもらふことになつた。途々いくたりかの農夫に出会つた。パアル・バツクの「大地」に出て来る農夫たちを眼のあたり見る思ひである。保定の城門に近い小川のほとりで、暢気さうに投網をしてゐる老人もあつた。さうかと思ふと、そのすぐそばの柳の木蔭に、馬が一頭、白骨をさらしてゐるのである。
保定城
この日は、日本軍の保定入城から丁度一週間目である。そして、第一線は、とくに石家荘を抜き、もはや邯鄲を落した時分である。しかし、つい二日ほど前、敵の飛行機が城外へ飛んで来て爆弾を落したといふ話を、その晩、人々は話し合つてゐた。
私は西門で自動車から降されると、衛兵所で○○○○室の所在を尋ねた。
生憎、さう大きくはないが手提鞄をひとつ持つて来てゐるので、こゝで降されてはちよつと困るのである。それでも私は教へられた方向へとぼとぼと歩きだした。道は白く乾いてゐて恐ろしく埃つぽい。城門に近いあたりは、場末らしい低く不揃ひな家が軒をつらね、往来では物売りが店をひろげ、そここゝで子供も遊んでゐる。
突然、後から足ばやに追ひついて来るものがある。お巡りさんであつた。いきなり私の提げてゐる鞄を取り上げようとする。私は放さない。なにやら、声高に云ふ。わからないが、察するところ、道案内をしてくれるものらしい。おまけに、鞄をもつてやらうといふのだから、これは、すぐには私に通じない筈である。
保定警察局といふ看板の出てゐる比較的立派な建物の前に来た。丁度そこに憲兵隊の自動車が待つてゐたので、運転手台にゐる兵隊さんに、私の会ひたいと思つてゐる人の名前を云ふと、やはりこの建物のなかで訊いてみろと教へられ、やつと安心した。
私は、刺を通じて署長に面会を求めた。署長室へはひるや否や、驚いたことには、支那服の袖に黄ろい腕章をつけた一人の小柄なお婆さんが、つかつかと私のそばへ来て、日本語で、
「さあ、どうぞ……。これが局長さんです」
と、奥の卓子の向ふでいま起ち上つた詰襟黒服の、なるほどお役人らしい一人を紹介してくれた。
私は、そのにこやかな、如何にも遠来の客を迎へるといふやうな調子の挨拶をぼんやり聴いてゐた。
お婆さんは、通訳して曰く、
「よくいらしつて下さいました。ご用はなんでせうか――こぎやん[#「こぎやん」に傍点]云ひよるです[#「よるです」に傍点]たい」
そこで、私は、これに応へる代りに「はゝあ、これが有名なお婆さんだな」と思ひ、つくづくその姿、かたちを見直した。事変後保定にたゞ一人踏み止つてゐた日本婦人として、当時新聞が大々的に報道したのはこのお婆さんなのである。
「では、局長さんにかう云つて下さい。――私は保定の町が現在どんな風になつてゐるかを見に来ました。日本の国民は、何れも戦の過ぎ去つた後の町や村に、早く平和が訪れることを望んでゐますから……」
お婆さんの通訳ぶりはどうであらうか? 恐らく、言葉通りの意味を伝へてもらふわけには行くまい。しかし、局長さんは、熱心に耳を傾け、いちいち大きくうなづいてみせ、さて、私の方に向ひ、
「謝々《シエーシエー》」
と言つたやうに思つた。
そこへ、表から、忙がしさうにはひつて来た一日本人があつた。年は三十をいくつか過ぎてゐるであらうと思はれるがつしりした青年である。
お婆さんは私に耳うちをした。
「あれが、井河先生ですたい」
私の会はねばならぬ人である。
役目はこの警察局の主事といふ、つまり顧問格なのであらうが、実際の権能は寧ろ今のところ局長の上にありと私には察しられた。
かういふ都市の治安維持、進んでは行政、経済その他一般の平和工作が、現下の情勢では、まだ軍事的機関の一翼に連つて進められることは勿論であるから、あまり立ち入つたことは書けぬと思ふ。が、単なる好奇心からでなく、国民は、前線躍進の有様と同時に、後方の落ちつきを「手に取るやうに」知り得る術はないかと念じてゐるのである。
私は、この保定を一例として、可能な範囲に於ける見聞を綴つてみよう。
井河氏の好意で、その夜は、警察局官舎といふか、同氏の私室といふか、とにかく局構内の奥まつた一室を特に私のために明けてもらつた。
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