日本」が、あらゆる点で、平素から民衆の眼にもつと洗練された趣味、殊に近代的なスマートさを誇示してもらひたいやうな気がするのである。欧米依存の風潮は案外、こんなところにも一原因があると考へられないことはない。支那に於ける各国の租界文化といふものを当局は政治的に検討してみたらどうか?
それはとにかく、ホテルに帰ると、私は、T書記生をつかまへていろいろな質問をした。この人は事変前、やはり支那沿岸のある領事館に長らく勤務してゐた経験から、支那に於ける日本人の問題について相当面白い話題をもつてゐた。今それをいちいち紹介する暇はないが、こゝにも日支関係調整のひとつの鍵が秘められてゐるのを知り、今度の事変は、益々複雑にしてしかも微妙な将来を、われわれ国民の肩に投げかけるものであると思つた。
英人経営のこのホテルは、まづこの土地では一流と云つてよいのであらうが、ボーイは悉く支那人で、その点、甚だ妙な具合である。日本人にサーヴイスなどごめんだといふやうな強硬な手合はゐないのであらうか? ちよつとでも所謂「侮日的」態度が見えたら、私の一夜の眠りは安らかなるを得まいと案じられた。ところが、腹のなかはどうか知らぬが、表面はなんの変りもなく、寧ろ義務を義務として忠実に果すといふ風が見え、特にお愛相がいゝとまでは行かぬにしても、決して不愛想ではない。
私は喉が渇いたのでアイス・ウオーターを持つて来いと命じた。すると、なにかの空瓶に生温い水を入れ、それへコツプをかぶせて持つて来た。水は一度沸かしたものだからそんなに冷くはないのださうだ。
で、その理窟といつしよに、私は一杯の湯ざましを飲み込んで、今日日本租界の本屋で買つたばかりの「抗日論」を読みはじめた。時と云ひ、場所と云ひ、この翻訳論文集は興味湧くが如くであつた。
蒋介石ほか十七人の、それぞれ時局を指導するためにものした文章が、こゝで様々な重要人物の思想と風貌を浮びあがらせてゐる。馮、張、毛、章、徐、胡(適)、何、陳、宋(慶齢)の言論は、殊に代表的なものである。
この度の事変に対するわが国民の認識、就中、知識階級全般の覚悟を促すために、これらの文献は是非広くわれわれの間で読まれなくてはならぬと思ふ。
それにしても、日本人の、いざといふ場合の挙国一致ぶりは誠に眼ざましく、頼もしい限りである。それだけ、政治家の責任が重いといふことを政治家自ら深く肝に銘じておいて欲しいものである。
その翌日、私は、司令部に出向いて、従軍記者の腕章を貰ひ、M少佐から昨日の返事を聞いた。残念だが観戦武官とその案内者で飛行機の座席が満員であるから、同行の儀はむつかしいとのことで、止むを得ずそれは諦めた。が、そこで、私は早速保定に行きたいと云ふ希望を述べると、それなら、連絡機に乗せてやつてもいゝとの有りがたい取計ひに、私はほつとした。実を云ふと、天津から保定まで今のところ普通で行くと三日かゝるのである。それが一時間で着くのだから、こんな時間の経済はない。
その場になつて間誤つかないやうに、私は、夕刻自動車を駆つて臨時飛行場を検分に出かけた。飛行機は、翌朝八時に出発といふことであつた。
まづ安心と、それから、街へ引返し、日本租界のなんとか公司といふデパートへはひつてみた。ガマ口が破れかけて来たのと、襟巻を何処かへ置き忘れて来たので、代りを新調せねばならぬ。各売場をひと渡り廻つて歩いた。素晴らしい支那美人の売子の前に髭面の兵隊さんが集つてゐる。小間物の売場で煙草はないかととぼけてみたりする。女売子は、その典型的な柳眉を心もち寄せて、つんと澄ました。しまひに、誰がなんと云つても返事をせず、たゞ面倒臭さうに首を横に振るばかりである。流石の兵隊さんも根負けをしたらしく、「行かう、行かう」と云つて立ち去つた。
私は、ふと、自分の捜してゐるガマ口がそこに並んでゐるのに気がついた。硝子箱の中の気に入つたのを出してみせろと指でさすと、件の女売子は、頗る横柄な手つきで、それを私の前へ抛り出した。
「いくら?」
「……」
口の中でなにやら答へたらしいが、よく聞えない。
「え?」
「……」
「わからない」
「一円五十銭」
と、彼女は、鈴虫のやうな声できつぱり日本語を操つた。
金を出さうとすると、彼女は、そこにおいてある呼鈴をヂヤンヂヤン鳴らしだした。何時までも止めない。なんの合図かと思つてゐるうちに、向ふから給仕風の男の店員がやつて来て、私の出した金を受け取つて行つた。さて、彼女はおつりと一緒に品物を私の方へ押しやつたと思ふと、あとはもう、素知らぬ顔で、横を向いてしまつた。凄艶と云ふ言葉が実によく当てはまるやうな顔かたちである。が、サーヴイスは日本なら落第組であらう。但し故らさうしてゐるのだとすれば、また何をか云はんやである。それ
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