かが物を書く必要はないぢやないか」
「さういふ議論も成立つね。しかし、おれは、何も、今迄の人がやらなかつたことをやらうと思つてゐやしない。おれの作品はおれから始まつておれに終る、さういふ一つの歴史しかもつてゐないと見てくれたらどうだ。文学をその時代的価値ばかりで判断するのは少し可哀さうぢやないか」
「だからさ、君がもつと立派なものを書いてゐれば、それでもいいさ。立派なものの亜流だよ。おれたちが葬つてしまひたいのは」
「立派なものなら旧くつてもいいのか」
「いいさ、ただ、おれたちに用はないだけの話さ。君たちの書く作品のやうに、あたりの邪魔をしないだけでも、まだいいよ」
「冗談云つちやいけない。君達の邪魔をするのは、同じ旧いもので、佳いものなんだよ。その意味で、僕達の書くものが下らないものなら、君たちの作品を、却つて目立たせることに役立つ筈だ」
「さうも云へるね。ぢや、君達は僕たちの恩人か」
「まあ、そんな処らしいな」
 かうなると、論戦にもなにもならなくなるが、文学は、自分一人で坐る座敷ではないのだから、さう肱を張つて啀み合ふ必要はないぢやないか。
 ただ困るのは、文学とは「自分の主張するやうな種類」の文学でなければならないと断言して憚らない人達が、「正しい文学の道」にはひらうとする青年を誤らしめる事である。
 少し文学史を繙いた人なら、さういふ連中が何時の時代にもあつて、二十年後の世間は、もう相手にもしなくなるのであるが、結局新しい文学とは、主張だけから生れるのではなく、その主張によつて、疲弊した旧文学に「新しい生気」を与へることから生れるものであることがわかる筈だ。
 従つて、新傾向の主張を反駁する連中は、薬をいやがる病人のやうなものであり、或は、薬で腹がふくれるかと息巻くわからず屋である。
 さうかと思ふと、また、「かういふものがあつていい」と或る人が云へば、「そんなものよりこつちの方が大事だ」と答へる。どつちが大事かは別の問題で、無くつていいものでない限り、まして、在つてはならないものでない限り、どんなものでも在るに越したことはない――少くとも文学の中には。人の顔さへ見れば自分の持つてゐるものを取られるやうに思ふ癖は、文学者として、少々、慎しむべき癖である。
 そこで、どつちが大事かといふ問題であるが、それは、その人に取つて、そつちが大事だとも云へるまでである
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