ではあるが、その点に聊か触れてみたいと思ふ。
同じことがいろいろの方面から、いろいろな言葉で云ひ現はせると思ふが、先づ第一に、日本の現代劇を通じて、最も大きな欠陥とすべきは、「言葉の価値」が著しく無視されてゐることである。「聴かせるための言葉」が、文学的に云つても、まだ極めて幼稚な表現にしか達してゐないことである。「語られる言葉」が、「読まれる言葉」に対して、どれだけの心理的乃至感覚的効果を与へ得るか、この点、劇作家の用意が頗る散漫であり、俳優の工夫が至つて怠慢なことである。
ところで、これは単に「言葉」の問題ではない。この用意の欠如と工夫の閑却は、延いて戯曲の、舞台の、「あんまり長すぎる」感じを与へる唯一の原因となるのである。あんまり長すぎるとだらしがない、退屈する、つまり面白くないのである。
劇作家は、きつと云ふであらう。「おれは面白い芝居を書く意志はない、ただ、芸術的であればいい」と。それは御尤もであるが、芸術的であれば長すぎてもいいと云ふわけはない。芝居で、長すぎるといふことは、禁物である。
「劇的文体」の完成、「舞台的対話」の洗煉、これが若い劇作家にとつて、目下の急
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