未完成な現代劇
岸田國士
私はこれから、日本の所謂「新劇運動」に対する考察、批判、研究の一端を、断片的にではあるが、そこから、努めてある一つの結論をひき出し得るやうに、述べて見るつもりである。
「新劇運動」といふ言葉は、「近代劇運動」といふ言葉と区別されなければならないことは勿論であるが、これは、西洋でのことであつて、現代日本の演劇を云々する場合に、果して、その必要があるかどうか、これは、一考を要する問題である。
われわれはまだ、厳密な意味に於て、われわれの「近代劇」を有つてゐない。この点で、恐らく異存を挟むものはあるまい。これは決して近代の日本が、まだ一人のストリンドベリイ、一人のチエホフ、一人のポルト・リシュ、一人のショオを生んでゐないといふやうな「看板の大小」の問題ではない。現代の日本が、まだ「近代劇」を生むべき「芸術的雰囲気」を有つてゐないといふのである。つまり、もつと適確に云へば、現代の日本人はどういふ演劇が、過去の演劇にかはつて、自己の芸術的欲求を満たし得るかを知らずにゐるのである。
これを、劇作家乃至俳優について云へば、日本古来の演劇が、兎も角も今日までに完成した「美の伝統」を放擲して、直ちに西洋劇の「思想的形式」のみを模倣することに急いだ結果、西洋劇の「本質的なもの」を取り逃した、無味乾燥な「日本現代劇」を作り上げたのである。
然し、かういふ状態はつまり過渡期には免れ難い状態であるから、それほど悲観するには当らないが、若し今、日本にも一つの「新劇運動」が生れるとすれば、それは決して、「歌舞伎劇」乃至「新派劇」への挑戦である必要は毛頭なく、実は、「西洋劇の完全な模倣」であつて少しも差支ないと思ふのである。模倣といふ言葉が気に入らなければ、「正しい理解と本質的な摂取」――かう云つてもいい。言ひ換へれば、西洋の芝居を観て(へたな翻訳劇などを云ふのではない)面白いと思つたその面白さが、日本語で書かれた戯曲の中に盛られ、日本語で演ぜられる舞台の上で聴かれれば、それでいいのである。
そこで、この「面白さ」であるが、結局これは、真似ようと思つて真似られるものではない。「完全に真似た」と思ふ時には、既に、「自分のもの」が出来上つてゐるのであらうと思ふ。日本の「現代劇」――これが、何も、西洋劇の研究からのみ生れると云ふのではない。歌舞伎劇の伝統から、新
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