て、忌憚のない批評を試みたが、その際も、特に、翻訳劇上演の意義と、その方法に関する私見を述べた記憶がある。一言で云へば、外国劇の上演には賛成だが、その方法を誤つては悔を後に遺すであらうといふ意味であつた。
私は、その頃から、翻訳劇のみを演らされてゐる俳優が、将来、どうなるであらうかを心配し、女形の問題などと引合せて、いろいろ考へてゐたのであるが、女形には、女形の存在理由と、根本的な修業方法があるに拘はらず、西洋人に扮する役にはその場限りの誤魔化しがあるばかりである。女形は、先づ女になることが芸であるが、西洋人になることは、「近代の演劇」に於て、芸とはいへないのである。少くとも、それは、演技の全般からいへば、第二義第三義的のものである。西洋人になるために、感情の表白が曖昧になり、俳優の個性が生かされないとなると、舞台の魅力は忽ち稀薄になることはわかりきつてゐる。
この問題を先づ解決しなければ、翻訳劇ぐらゐ演出者以外を楽しませない芝居はないだらうと思ふ。
そこで、私は、これも度々人には話したことで為るが、外国に於ける「翻訳劇」の上演方法を参考にするといいと思ふのである。
特に異国情
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