調を売物にする芝居を除いては、外国人に扮するために、特に、その努力をする俳優を見たことがない。白人間の相違は知れたものだと云ふかもしれぬが、それが抑も認識不足で、例へば英国人と仏蘭西人との相違は、一目見ればわかる。が、「真面目な芝居」に於ては、演劇の精神を没却することを惧れ、俳優は、自己の全能力を、人物の個人的表現に傾倒し、恰も、それが「自国の劇」であるかの如き演じ振りをする。それ故、見物の方でも、舞台は外国でも、登場人物は、外国人であることを忘れさうになるのである。つまり仏蘭西の見物を前に演ぜられる翻訳英国劇は、英国で演ぜられるやうには演ぜられないにせよ、英国の見物が、自国の劇を観る如き、少くともそれに近い「印象」を与へ得る結果になる。
この方法こそ、自国劇を豊富にする唯一の道であり、殊に、日本の新劇は、この方法によらなかつたために、俳優の演技を訓練し得なかつたのである。
私の考では、外国劇を演ずる場合は、先づ、外国人の考へ方、感じ方を殺さない程度に、白を十分、日本語として「生命づけ」、その上で、日本人として特に、典型的な外貌及び習慣を封じて、一個の国際人たる生活表現を心がけ、科の如きも、わざわざ西洋人らしくする努力を省き、それよりも、活きた人間の神経を全身に通はせることを忘れなければよろしい。
かくして生れた舞台は、或は、西洋臭くないかもしれぬが、一層演劇的であり、皮相な異国趣味を求めるものには飽き足らぬかもしれぬが、ほんたうの趣味を解するものには、初めて、迎へられるであらう。
ところで、それならいつそ、翻案にしたらよいではないかといふ意見も出るであらう。私は、ある場合、殊に、外国の風俗習慣になじまぬ一般観衆のためには、その方がよいと思ふ。しかし、演劇に限らず、物語の興味は、ある程度まで、雰囲気の面白さ、生活事情の面白さを含んでゐる。さういふものを生かすためには、やはり、翻案では不十分である。
また、戯曲そのものの性質からいつても、翻案の方がよい場合もあり、翻訳に止めた方がよい場合もある。
今月の築地座は、その意味で、二つの好ましい例を示した、二つとも、方向を誤らない新劇の見本として、出来栄の如何に拘はらず、私は、大へん満足したことを特筆せねばならぬ。これがこの劇団の仕事として、最も意義あるものの一つになり得たことは、決して偶然ではないので、結局は、
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