くもない。心配する親がゐるわけである。
ミュツセとアナトオル・フランスとを、日本語で読めるやうに訳すのはむづかしい。
モオパッサンは、なんでもないやうで、やつてみると、どうにもならない。日本語にすると、味のつけようがないのである。物にもよるが、下手をすると、俗つぽくなつて読めないものになりさうだ。ああいふことを書いてあれだけの文学になるのは、仏蘭西語の力ではないかと思ふ。しかし、それよりもほんたうは仏蘭西の文化の力である。
ルナアルは、比較的誰にでも訳しいい作家だらうと思ふ。と云ふのは、文章に固い心のやうなものがあり、それが気体的なものを発散してはゐるが、その心をつかまへれば、それだけでもう、一種独特の面白いイマアジュが浮んで来る。彼の文体は、モオパッサンのそれと反対に、伸び縮みがきかない。無理をするとポキリと折れるから、すぐにこいつはいかんと気がつくのである。そこへ行くと、モオパッサンといふ奴は、引つ張るとどつちへでも伸びて来て、うつかり元の感じからずれてしまふ。真面目に取り組むとじれつたくなる。
戯曲の翻訳は、実際、仏蘭西の芝居を観ないと、肝腎の対話の呼吸が呑み込めないのではないかと思ふ。トオキイは、その意味でいい勉強になるが、所詮、日本語は「語られる言葉」としては貧弱この上なしだ。対話の表情まで言葉として訳し出すことは、先づ不可能と諦めなければなるまい。(一九三五・一)
底本:「岸田國士全集22」岩波書店
1990(平成2)年10月8日発行
底本の親本:「時・処・人」人文書院
1936(昭和11)年11月15日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
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