供を叱り、ご用聞きに註文したりしてゐるのを聞くと、それは東京弁と凡そ隔りのある訛りとアクセントだ。が、さうかと云つて、それは私の知る限り、どこの方言でもないのである。どうかすると外国人ではないかと思ふほど、無味乾燥な日本語で、しかも本人は少しもそんなことは気にとめてゐない。標準語を話してゐるつもりなのであらう。ああ、悲しむべき標準語よと、私は、つくづく思ふことがある。この勢ひで進めば、われわれの周囲で、美しい日本語を聞くことはできなくなるとさへ断言し得る。
 さうかと思ふと、また議会の壇上で、放送局のマイクロフォンを前にして、政治家、学者、官吏などが、やはり方言的抑揚をもつて、天下国家を、学問技芸を論じ、聴くものを危く失笑せしめることがある。子供などはほんとに笑ひころげるのである。さうかと思ふと、これは面白い例であるが、ある映画の説明者が東京で修業をして、郷里の常設館に職を得、嘗て使ひ慣れたその地方の方言を以て、思ひのまま熱弁を揮はうとしたところ、観客は一斉に笑ひこけ、馬鹿野郎の声さへそのうちに混つたといふ話を聞いた。この消息も私にはわからぬことはない。
 結論を急げば、方言の魅力は、その地方に結びつく生活伝統、乃至個人の私的感情に裏づけられた談話的表現に於てのみ、その本来の面目を発揮し、事、公に亘る場合、わけても、「社会」一般に呼びかけるやうな問題の説述に当つては、その魅力が言葉の内容から遊離して、奇癖又は仮面の如く滑稽感を誘ふものである。これは、地方の方言のみがさうなのでなく、地方の人々が、標準語そのものと考へてゐる東京弁が、その方言性によつて、同様な結果を見せるのである。
 文芸作品としては、阪中正夫君の『馬』だとか、私の『牛山ホテル』だとか、金子洋文君の『牝鶏』その他だとか、何れも、方言の魅力を様々な意味で利用したものであるが、井伏鱒二君に至つては、方言そのものの創作をさへ試みてゐると聞く。さう云へば、誠に文体の創造は、各作家の「個性的方言」の活用に外ならぬ。[#地付き](一九三二・六)



底本:「日本の名随筆 別巻66 方言」作品社
   1996(平成8)年8月25日第1刷発行
底本の親本:「岸田國士全集 第一〇巻」新潮社
   1955(昭和30)年9月発行
入力:大野 晋
校正:多羅尾伴内
2004年12月11日作成
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