ういふ人間もあり得ると思ふのですね。今の日本の道徳教育といふものは、さういふ男を創る可能性が非常に多いものです。これは大変なことですよ。
 これは、どうも、国民文学もそれになると困るだらうと思つてね。
 国民文学のあらゆる条件を具へてゐながら、これでは困るといふやうなものだね。
 文化と国民の結びつきの問題。それをやらなければ国民を再組織するといふことは、なんにもなりませんね。たゞ、文化部門といふものが、いはゆる国民大衆と離れた存在になつてしまつては、これはゼロになる。
 いはゆる組織といふやうなものはですね、御承知のやうに非常に整然と出来てゐて、ついそれが一番いゝものゝやうな錯覚を起しますからね。これは注意しなければいかんと思ふのですよ。さういふものは別にさう悪い影響をうけなければいゝやうなものだけれど、どうもこつちが組織的な頭がないし、こいつは便利だなんと思ふと危ない。それも今の話のやうに、成る程立派だが、何か欠けてゐるといふやうな、さういふ組織になつてはなんにもならないから……。
 ところが、ドイツ民族といふものは、組織で相当に動かし得る民族なんですね。そこに非常に特色がある。しかし、日本の国民は、非常に柔順で、聞き分けがいゝやうだけれど、やつぱり、あの手では動かんといふ傾向がありますね。
 どんな傾向かといふと、それは、話さなければ分らないといふことです、結局。話せば分るといふのは面白い言葉だ。それは僕は、何かにも前に書いたことがあるけれど、フランスで聞いた話でね、この前の世界大戦の時に、ドイツ軍がフランスへ入つて来て、ある部落を占領したのです。目撃した人の話では、一中隊くらゐですがね。無論そこはフランス兵がゐた部落です。そこを占領して、フランス兵がずつと退却してしまつた後ですが、中隊長の号令で部落の外側に散兵線を造つたのです。散開して、今度はまた号令でもつて、其処にずつと並んでゐる満開の林檎の樹を一斉に伐り倒したのですよ。それを視てゐたのが猶太系のフランス人ですけれど、それが僕に話したのですが、それを見て心が寒くなつた。弾丸《たま》の来る中で憶えてゐたのだけれど、その怖さとは違つた心の寒さを覚えた。フランス人ならドイツへ仮りに攻めて行つて占領しても、其処に若し林檎の樹でもあれば、ドイツが憎らしいといふ感情から、そいつを銘々が勝手にやけつぱちに伐り倒したりすることは、これはあり得る。しかし、号令一下、整然と林檎の樹を倒すといふことは、こいつはフランス人にはできませんと云ふのだ。僕はその話を聴いて、面白いと思つたのですけれど、しかし実はね、その話はですね、非常に不正確なんです。何か、ドイツの国民性とフランスの国民性といふものが比較されてゐてちよつと面白い話で、さういふ風に話されたから、僕はさういふ風に理解したのですけれど、事実は違ふのですね。ドイツ兵が、それを伐つたのは、其処の部落を完全に占拠するために、射撃の邪魔になり、向うを透視する邪魔になる樹を全部伐り倒したのです。そのために号令をかけたので、フランス人が見て理解したのとは違ふわけなんですけれど……。一昨年支那へ往きましてね、綺麗な柳の並木を倒したのを見た。これだなと思つたですよ。勿体ない話だけれど、これだと思つた。
 良識家といふことは普通になることである。世間に変なことが無くなること、要するにそれだけでよいので、さういふ時代になつてこそ、僕は、天才といふものが本当に輝きをもつんだと思ふのです。
 ですからね、一時文壇で盛んに使はれたヒユーマニズムといふ言葉を使はなくても、やつぱり、この人間といふものはいつたいどんなものかといふことについて、もう少し政治家もよく知つてくれ、国民一般も知つてくれて、お互にこの共通な認識を早くもたなければいかんと思ふのです。これが今無いことが、結局いざといふ場合に、国民の本当の力を出し切ることのできない最大原因だと思ふのです。
 今のこの日本の教育なり、日本人のものゝ考へ方のなかに、人間性の無視といふものが瀰漫してゐると思ふのですが、これを救ふものは、文学の力以外にはないと思つてゐます。(昭和十五年十二月)



底本:「岸田國士全集25」岩波書店
   1991(平成3)年8月8日発行
底本の親本:「生活と文化」青山出版社
   1941(昭和16)年12月20日
初出:「文芸 第八巻第十二号」
   1940(昭和15)年12月1日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2010年1月20日作成
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