れの民族、それぞれの国家が、その発展途上に於て示した最も輝かしい旗じるしでありました。それは、ただ単に、人間の研究とか、人生への考察とか、現実の批判とかいふやうな、云はゞ、世界を通じての真理追求に終始してゐるのではありません。東西古今の文学者は、常に、自己の属してゐる民族の希望と、苦悩と、時代の運命について、それぞれの立場からその代弁をつとめてゐるのであります。
 しかしながら、時に、或る作家は、沈黙を守らねばなりますまい。沈黙を守ることが国民としての義務だといふ場合もあり得るのであります。かういふ作家の良心は信じなければなりません。けれども、公然発表され得る作品について云へば、それらの作品は、それが文学と名のつく以上、狭い意味での政治的な意図を含まないまでも、広い意味に於る国民生活の推進力とならなければならぬと信じます。なぜならば、文学こそは、国民生活の、最も深い理解者であり、人間としてのわれわれの感情、意志、行動の監視者であり、批判者であり、そして屡々その誘導者であるからであります。

       七

 今日の政治は、既に文学に多くのものを求めてゐることがわかります。文学者も亦、その職能に応じて、国防国家建設の一区処を受けもつべきであることを自覚しはじめました。
 しかし、私の見るところでは、現在の政治が文学に求めてゐるものは、或は愛国心の鼓舞とか、国策の宣伝とか、健全な娯楽の提供とか、少し大袈裟なところでは、民族理想の昂揚といふやうな方面に限られてゐるやうであります。更に、文学を含めての文化政策としては、思想戦への参加といふことも唱へられてゐますけれども、その思想といふ言葉の意味が狭い政治的な範囲に止まつてゐるやうに思はれます。
 私は、こゝで、国防国家建設といふ極めて特殊な時局的表現を用ひましたから、かゝる国民的事業への邁進を、軍隊の戦闘行軍に譬へ、文学のこれに応ずる任務を大体二つに分けて考へてみたいと思ひます。
 即ち、第一は前衛的任務、これは読んで字の如く、前方の敵に備へて、本隊の進路を開き、その行軍並に戦闘準備を容易ならしめる先駆部隊の任務です。日本でも嘗て左翼文学が盛んであつた頃、これに属するある団体が自ら称して前衛と名乗つたことがあります。前衛座といふ劇団もできました。しかし、この言葉が文学、芸術で用ひられたのは、これが最初のものではありません。フランスでは、すべて芸術の先駆的傾向を、アヴァン・ギャルド即ち、前衛、或は先駆と名づけてをります。
 現在に於る文学の前衛的任務も決して忽せにはできません。前に申しましたやうな、狭い意味での政治的役割は、ほゞこれに当るものだと思ひます。しかし、これは、すべての文学に求めることは困難なのであります。なぜなら、国民のすべてに、政治家たれと要求することは、いかに政治万能の時代と雖も無理な話であります。第一、その必要もありません。そもそも政治家といふものには、それ相当の資格があり、さういふ資格のない自称政治家の言論や行動ほど国を危くするものはありません。
 文学者は概して、政治家としては不向きにできてをり、また自らもそれを知つてをります。殊に、専門の政治家や官吏にできることを手伝ふ余裕もない。ただ、われわれがしなければならぬと思ふこと、しかも、主として創作活動を通じてなし得ると思ふことは、第二の側衛的任務であります。
 文学の側衛的任務とは、前衛に対して本隊の側背を護り、前面の敵に気をとられて、不意に側面から攻撃を受けるのを防止する任務であります。国防国家として、この任務はまた極めて重要で、これに当る部門はほかにもありませうけれども、私は、文学こそ、その主力的なものだと信じて疑はないのであります。

       八

 こゝで皆様の注意を喚起したいのは、この非常時といふ時の性格についてゞあります。これを歴史的転換期と申してもよろしい。国力、民心ともに、大きな政治的動揺のなかに、たゞ一つの進路を求め、すべての眼が前へ前へと注がれ、あらゆる希望と不安とが行く手に指し示され、破壊と建設とが目前に相次ぎ、遅れるな遅れるなといふ声が耳を覆ふのであります。
 当面の敵は、なるほど、前に控へてゐます。これに対して、われわれは、武力と経済力とを動員し、今こゝに、国民の精神をもこれに向つて総動員しつゝあるのであります。
 ところが、敵は前面にだけゐるのではありません。側面からも背後からもわれわれの隙を窺つてゐます。どういふ敵でありませうか? 油断大敵といふ洒落ではありませんが、正に、それに類する大敵であります。即ち、わが国民の人間としての品位と指導者としての信用を脅す敵であります。
 これをもつと詳しく申しますと、非常時局に対してゐる国民のなかには、大きな三つの警戒すべき傾向が生じ勝ちなのであります。一つは、平衡を失つた自尊心。即ち、人がどう思ふかといふ懸念、自分の眼でたしかにものを見、自分の判断で行動しようとしない附和雷同性の原因。
 一つは、習慣性になつた競争心理、人を押しのけて前へ出ようとする性急な粗暴な言動。
 もう一つは、思考力の凝結とでも云ひますか、或ることを考へると、もうそのほかのことは考へられなくなる傾向。従つて、いろいろな現象を自分の都合のいい結論へ引つ張つて行き、とにかくその場を切りぬける便宜主義であります。この三つの現象を別の言葉で云へば、人間が人間の本性から遠ざかつて、機械と獣に近づくといふことであります。
 これらの傾向は、既に政治的な大きな結束力によつて、現在国民の足並を乱させるに至らず、当面の戦争といふ目標には、さしたる不都合もなく、個人的な問題として看過される場合があります。
 ところが、かういふ心理的傾向は、徐々にではありますが、先づ社会現象として、国民の能率を低下させ、活動力をすりへらします。生活に対する疲労倦怠と国民体位の下落もその最も大きな結果であります。またそれが、国民の文化的教養の程度といふかたちで示されると、風俗の混乱、意志表示の貧しさ等になるのであります。さてさうなると、これは必ず側面の敵をして乗ぜしめる絶好の機会なのでありまして、殊に、直接には敵に有利な宣伝の具を与へ、徐々にわが国内を紛糾に導く手がゝりに利用され、われわれの遠大な理想を冷然と揶揄する口実を捉へしめるのであります。
 そればかりではありません。かゝる傾向が国民の上層部まで浸み込んで行く結果は、長期建設の途上、必ず、わが国民への他民族の軽侮、不信といふ形で表れて来ます。敵性を示す国々の軽蔑はまだこれを懲らしめる手段がありますけれども、われわれに手をさしのべる民族の不信は、どうしてこれを取返すことができませう。
 われわれの生涯に於てはなほこれを忍ぶとしても、われわれの子孫後裔をかかる境遇に投げいれることは、これを黙視し得ないのであります。
 日本の光栄は、私ども、祖先からこれを受けつぎ、更に、子々孫々に伝へなければなりません。
 過去七十年、わが日本は、まことに、非常時につぐに非常時を以てしたと云はねばなりませんが、この歴史は、所謂国力の発展といふ一語に尽きるでありませうか? われわれ国民の生れ育つた時代は、実に、私のいふところの非常時的性格が同時に形づくられた時代であると云へるのであります。
 私は、かゝる時代に生れ育つた国民の一人として、この非常時中の非常時に際し、切にわが為政者並に同胞の皆様がたに知つて戴きたいのであります。すぐれた文学とは、かゝる側面の敵に備へ、国民の心の隙を戒め、乱にゐて治を忘れない精神のひろさと静かさを与へる、重要な任務につくものなのであります。そして、時代に眼覚めた文学者は、この文学の側衛的任務のためにおのおの、その才能と努力と情熱とを傾けようとしてゐるのであります。
 日本文学の伝統は、「ますらをぶり」と「もののあはれ」にあると云はれてをります。「ますらをぶり」とは、非常時をおそれない精神、戦ひにひるまぬ雄々しさであります。「もののあはれ」とは、移りゆく現実を直視して、そこに人間の偽りなき姿を発見することであります。万葉と源氏によつて代表されるこの二つの国民文学的血統は、日本文学者を、今こそ奮ひ立たしめるのであります。文学の側衛的任務とは、決して、文学者の遁避や躊躇を意味するものではなくて、寧ろ、文学の本質と伝統に即した貴重な使命を意味するものであります。(昭和十五年十二月)



底本:「岸田國士全集25」岩波書店
   1991(平成3)年8月8日発行
底本の親本:「生活と文化」青山出版社
   1941(昭和16)年12月20日
初出:「文学界 第七巻第十二号」
   1940(昭和15)年12月1日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2010年1月20日作成
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