私は文部省編纂の国語読本が国民教育の立場をはなれて存在しないことはよく承知してゐます。他の科目との関連といふことも察せられますが、それにしては周到な注意の下につくられてゐると感じてをります。一通りあらゆる形式のものが網羅されてゐます。文体から見ますと現代語は標準語といふ制限のあるためもあるし、内容が幾分啓蒙的でありすぎるために、それ/″\の形式は揃つてゐますが、形式が要求する文体的魅力が十分発揮されてゐない憾みがあります。
 もう一つ、これは少し僭越な言ひ方かも知れませんが、同じ物語りでも何となく美談めいたもの、出て来る人物が例外なく俗にいふ感心な人物でありすぎるのが気になります。これは児童の精神に健康的なものを与へるといふ配慮から一応御尤なことでありますが、文学者の立場からは異論があります。といふのは、日本人の美談好きは今や少々鼻もちならぬ、頽廃的傾向を生んでをります。それは偽善につながるばかりでなく、人間的価値を表面的な言葉や行為で片付けようとする浅薄な形式主義に陥ります。根本は明治以来の立身出世主義の風潮に帰すべきで、俗人横行の最大原因です。人間の本性や、必然の心理はかういふ現象の中ではしば/\無視されるのです。真実が真実としての厳粛さを失ひ、自然の美しい心情が日蔭の花のやうに萎んでしまひます。美談そのものが悪いのではありません。これを余りに担ぐ精神は抜馳けの功名心を煽ります。一人良い児になることを奨励する結果を生むのです。美談は常に凡人を必要以上に英雄化します。つゝましい人を強ひて派手にし、不幸なものを何となく幸福に見せかけます。美談は概ね万人の美徳を個人の占有化し、次に現はれるものを模倣者と見倣す惧れがあります。美談は何よりも人に知られることをもつて第一の条件とします。かくれた美談とは言葉の遊戯です。真の美談の主は人の語草になることを辛く恥かしく思ふかも知れません。日本人は今や美談の種拾ひです。何が美談かといふと多くは人間として当り前のことをしたのが美談、それでは一般日本人は人間として当り前のことをしてゐないかの如くに思はれます。普通の人間では出来ないやうなことをやつたといふ美談でも、よく考へてみると、その人間の美徳がさうさせたのでなく、異状性格や心理がさうさせた場合があります。珍しいかも知れないが、感心するには当らないといふ事実が直ぐぴんと来ることがあります。子供にもぴんと来るのです。いちいちそれを詮議するには当りませんが、美談を掲げてその効果を期待する精神の中には、さういふ隙間が往々あつて、やゝ深くものを見、鋭く判断する力をもつた者の顰蹙を買ふのです。文学はさういふ意味で、卑俗な美談尊重に大いに反撥します。が、これは文学が道徳と相容れないといふ一部の誤つた見方と何も関係はありません。文学こそ人生の真の美しい意志と感激とを、表裏錯綜した現実の中から仮名の人物に托して拾ひあげるものであります。
 国語教科書ばかりでなく、かういふ現代教育に対する忌憚ない批判は、皆さんの同感を得がたいかも知れませんが、これは単なる不満ではありません。皆さんの手加減が如何に働くかによつて寧ろ教科書編纂者の善良な意図があやまちなく達せられるのだらうと思ひます。そこで私は、先生方の教育者並びに人間としての確乎たる良心に信頼するものであります。

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昭和十四年六月、東京文理科大学内に開催された全国小学校教員国語協議会の需めに応じて行つた講演の速記である。同年七月、この速記は、「教育研究」に掲載され、なほ「革新」誌上にも転載を許した。
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底本:「岸田國士全集24」岩波書店
   1991(平成3)年3月8日発行
底本の親本:「現代風俗」弘文堂書房
   1940(昭和15)年7月25日発行
初出:「教育研究」
   1939(昭和14)年7月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年11月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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