はないかと思つて、今日家を出がけに、迂遠な話ですが、子供達の国語読本をもつて来させてばら/\と見たのであります。脚本の要素は慥かにあるやうです。殊に四年級でしたか、「五作ぢいさん」といふ対話、唯今下の部屋で伺ひますと、六年にはリア王、これは慥かに戯曲の一節です。対話は勿論戯曲の文体として考へていゝものでありますが、併し対話のすべては必ずしも戯曲的ではありません。後程この問題に触れますが、こゝで児童心理など詳しく知らない私でも、子供が対話形式によつて書かれたものは案外よろこぶものだといふことに気がついてゐました。今日も先生に訊いてみますと、会話は子供が面白がるものだといふことです。私のみるところでは、それは、自分達の喋つてゐる言葉に近いといふことがひとつの理由、それと、とにかく吾々が言ふ「対話の魅力」、それを大人以上に素直に受取り、感じて、自分のイメージとして誤りなく頭の中に活かす能力を実際にもつてゐるからだと思ひます。これは子供が「書かれた文章」よりも「話される言葉」としての対話から、一層、言葉の感覚を植ゑつけられることにもなるのであります。同時に、この対話といふ形式がすぐれてゐればゐるほど、子供の想像力は「言葉の生命」に直接触れて動き出すといふ微妙な作用を示してゐるのだと思ひます。といふことは、つまり対話の文体は、外の説話体或は描写体の散文よりも、言葉そのものの生命といふものが一層身近に感じられるからであります。そこで私は「対話」といふ形式に子供の表現力を伸ばす一つの鍵がある、言葉の秘密を探り出させる端緒がありはしないかといふことを考へてをります。教科書の中の現代文の対話について少し考へてみますと、対話にもさき程申しましたやうに色々あつて、散文としての対話、韻文としての対話、もう一つ戯曲的対話といふものがありますから、その区別を十分にして頂きたいのです。これを混同すると散文的な対話を強ひて戯曲的対話として取扱ふ危険があります。つまり散文としての対話に戯曲的対話の表現を無理に与へることになると、子供の想像力を混乱させることになります。世間に通用してゐる児童劇、童話劇といふものを見ると、この点が実に目茶々々であります。
 それでも子供は結構自分の空想でそれ/″\の場面を原作以上に面白く運ばせてゐますが、併し「言葉の訓練」といふ点から見ると非常に害があるやうです。一般の
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